(6)

 

 

 外からやって来て外へと消えた、父のことが頭から離れない。父が外で生きた「比類なき時空」。その意味を母がどれだけ尋ねても父は「そういう意味」としか答えなかった。もしかして、〝外″と〝津波″は、同じものなのかと思うことがある。父は誰よりも先に津波にさらわれ遥か遥か彼方の外へと消えた。

 

 加部ちゃんが港の倉庫街の外れで素振りをしているというウワサが流れた。バットの先を軽く揺らしてから豪快に振り抜く加部ちゃんのフォームで黙々といつまでもいつまでも素振りを続けているというウワサ。

 素振りは、何のためだったのだろう。

 まさかまたプロを目指すつもりだった?ただの運動不足解消のための遊び?栄光の数々を思い出して一振りごとに懐かしんでいただけ?それとも総額が分からないくらいにまで膨らみまくった借金を懲りずに取り立てに来るクズどもの頭を並べて順番に叩き割るため?そんなことをしなくても借金をまとめて返す方法を加部ちゃんは知っていた。リンは銀行に勤めている。汚れた金の流れに触れられる。ちょっとだけでいい。その流れを、変えてみることはできないだろうか。どうせろくでもない奴らがろくでもない喜びのために使う金なら、少しだけ流れる向きを変えこちらに吐き出させることはできないだろうか。加部ちゃんがそんなことを言ったのか、そもそもリンと会ったのか、分からない。何か伝えたのか、何か頼んだのか、脅したのか、泣いたのか、分からない。リンを抱いたのか、リンが抱いたのか、何があったのか、まるで分からない。何も分からない。今となっては。ふたりが消えた、今となっては。

 

 ふたりが同時に姿を消してから4日後に足が発見された。3人がトクベツな時を過ごしたあの倉庫街の外れの路上。足がもし加部ちゃんのものだったら、金の取り立ての果ての凶行なのか?足がもしリンのものだったとしたら、置いたのは、切ったのは、加部ちゃんなのか?

 足は、どちらのものでもなかった。足は、ボクの、このボクのものだ。もうどこにも行かなくて済むように、自分で切って、自分で置いてきた。

 

 

 ここでひとつ、大事な話。

 

 

 加部ちゃんは、加部ちゃんではない。だって加部ちゃんは、〝壁ちゃん″だから。この部屋の壁に浮かぶ幻をボクが形にした、〝壁ちゃん″だから。

 

 加部ちゃんもリンも存在しない。足はここにある。切れるわけがない。何も起きていない。誰とも会っていない。ボクは部屋の窓から港を見下ろすだけ。

 加部ちゃんが転校して来なかったから、ボクは糸コンのまま弾き出されていた。誰とも話せず笑われたままで、嫌われたままで、トクベツなままで。周りが獣に成長すればするほどボクとの差は大きく開いていき、虚弱な体が悲鳴を上げてSOSは虚空をさまよった。白いのりの遊びを覚えた頃から部屋を出るのがもう面倒になり、自分の足を切り港に置いてきてボクはこの部屋の王様になった。必要な物はママが運んでくれた。歪んだ溺愛でボクの言いなりだった。ひとりきりの息子。ひとりきりの家族。それがトクベツな、こんなボクで・・・。

 リンにはモデルが居る。窓から見つけた。

 Jリーグの試合がある日、スタジアムへ続く道をサポーターが通る。その中にオレンジ色のユニフォームに身を包んだ、純白に煌くリンが居た。あまりの美しさに呆然として次の試合日が楽しみになった。数回窓越しにリンと会ううちに抑えられないものが湧き上がり、港に置いてきた足を回収し久しぶりに胴体に接続した。いつ以来だろう、スニーカーを履き、リンを迎えるためにボクは外へ出た。間近で見るリンの美しさにボクの鼓動は痛いくらい沸き立った。震える手の隙間からレンズを向け気づかれぬようにシャッターを切る。リンが、ボクだけのものになる。ボクだけのリンが輝き笑っている。ボクの部屋の壁が、壁ちゃんが、リンの写真で埋め尽くされた頃、ボクはボクに許されるはずもない身の程知らずな計画を思いつく。リンと話す。話し掛けてみる。世界を変える。外へ、踏み出す。同じオレンジ色のユニフォームを着て試合後の帰り道で声を掛ける。サッカーの知識も溜め込んでおく。共通の話題できっと盛り上がる。

 サポーターで溢れ返る夜のスタジアム出口。それでもリンを見つけ出すのは簡単だった。どんな人混みの中でもリンはリンだ。しばらく距離を置き後ろを歩きリンと友だちの様子を窺った。試合に勝った高揚感に身を躍らせ友達と笑い合うリン。今がチャンスかも。やっぱ無理だ。話の盛り上がりが収まるのを待とう。少しして落ち着いてきたふたりとの距離を詰めながらよく考えてみる。いきなり後ろからじゃ不自然だ。信号待ちでさり気なく横に回り偶然目が合ったふりをしてみよう。それをきっかけに自然に話せる。あと少しで大通り。大チャンス。でもこんな時に限り信号が青。また後ろから付いていくしかない。リンたちが人でごった返す臨時の駐輪場へ入っていった。自転車に乗られたら追い掛けられない。どうすればいい?あ、自転車は一台。道まで出てきて友だちが跨った。手を振り見送るリン。そしてゆっくりと反対方向へ向かい歩き出す。一対一。鼓動が爆発。今日はやめておく?いや、それでも、うん。スタジアムの熱気がどんどん遠くなりユニフォームの数が減っていく。夜の港が近づきうっすらと潮の香りが漂い鼻をくすぐる。急がないと。人が減っていく。どんどん不自然になる。もう、今しかない。でも声が出ない。勇気が出ない。変に思われる。誰も居なくなった。今夜は無理だ。引き返そう。その時リンが立ち止まり、振り返った。ボクを冷たく睨み、リンが言う。

「警察、呼んだから」

 手にしたスマホをリンが掲げる。

「すぐに来るから。逃げられないから。もう終わりだから。盗撮野郎」

 血の気が全て引きボクは固まった。

「気づいてないと思ってた?ずっと前から、毎回毎回。関わるのも気持ち悪いから放っといたけど、もう限界だから」

「・・・あの・・・そうじゃなくて・・・話して、変わって、世界が・・・外が・・・」

「何言ってんの?意味分かんない。白髪のジジイのくせにキショイんだよ」

 

 気づいたらボクは港の倉庫街の外れでリンの上に跨っていた。夜の港の静寂と冷気の中で馬乗りでリンの首を絞めていた。ここで素振りをした加部ちゃんを思い出し、リンで埋まった壁ちゃんを思い出し、とっくに亡くなったママを思い出し、リンの真っ白な首を絞め続けた。

 突然、リンがボクを突き上げた。え?もう一度。え?もう一度。次の瞬間リンの体ごとボクは宙に跳ね上げられてつんのめった。首から外れた手を置く硬い地面が激しくボクをリンを突き上げる。揺さぶり暴れる。激しく、激しく。右へ、左へ、激しく、激しく。地鳴りが響き倉庫街が軋み異様な音が闇を破裂させる。地面が歪み震え暴れ狂いボクとリンを弄び躍らせる。何もできない。ただボクはまるでリンを庇うかのように覆い被さる。揺れは凄まじく、更に凄まじく、港を襲い悲鳴を上げさせる。四つん這いのボクの目の前で波打つ地面がその限界を遂に超えた。音を立てて裂けてゆくアスファルト。擦れ合い削れ合いぶつかり合う。視界の隅の大きな影が消えた。倉庫街の一角が崩れだした。耳を裂く音と巻き上がる砂埃。次はその奥も。反対側も。触れた地面より冷たく固まったボクは何もできずリンに被さったまま。

 

 無数の赤い柱が立ち昇り夜空が色を変え形を変える。誰もが初めて聞く、初めて嗅ぐ、音と臭いが地を這い渦を巻く。サイレンが狂い哭き断末魔の大津波警報が夜空を裂く。闇の港を満たす漆黒の潮があり得ないほど低く引いている。ボクはリンに覆い被さったまま、壊れた港の片隅で待った。加部ちゃんが、リンが、ボクが待ち望んだあの大津波が来る。本当に、来る。何をどうしてもどうにもできない、苦しみも、痛みも、悔しさも、寂しさも、嘲笑う顔も、伸し掛かる影も、突き刺す悪意も、弱い自分も、醜い保身も、瑣末な刃も、尊大な富も、フツーの群れも、何もかもまとめてさらってくれる大津波が本当にやって来る。ボクはリンを見つめその時を待つ。サイレンがつんざき祝福をする。リン。リン。リン?リン! リンがボクを見上げうっすらと目を開けた。ゆっくりとしっかりと目が開き唇が震え白い喉が揺れる。目を閉じる前の瞳に溢れていた恐怖の色がすっかり消え去っている。命が、今、ボクを見つめている。目の前の命が、命が、命が・・・。

 

 道はひび割れた。めくれ上がった。水と砂が噴き出し行く手を塞いだ。陥没した場所で泥水が渦を巻く。それを避けて急ぐ。早く。早く。背負ったリンの姿勢を直しながら高台を目指す。早く。高くへ。ショーウィンドーの割れ落ちたガラスを踏む。足が滑る。踏ん張り耐える。リンを背負い直す。前へ踏み出す。早く。早く。とにかく高くへ。ブロックを蹴りよける。人とぶつかる。よろける。踏ん張る。足が震える。倒木を避けて進む。早く。前へ。看板を踏み越える。前へ。前へ。リンを背負い直す。フェンスを回り込む。前へ。高くへ。とにかく高くへ。サイレン。絶叫。狼狽。怒号。悲鳴。絶望。無くなる街。震える足。震える体。余震。踏ん張り耐える。リンを守る。外壁を乗り越える。瓦を踏み歩く。電柱を跨ぐ。前へ進む。踏ん張る。踏み出す。前へ。高くへ。前へ。前へ。高くへ。高くへ。

 背中のリンが、微かな声で、何かを伝えようとしているのに気づき、立ち止まり耳を澄ましたその時サイレンの切れ目にボクははっきりとまるで地鳴りとは違う次第に大きくなる重くぶ厚い轟音を聞き港の方角を振り返りそこに視界の果てから果てまで広がった夜空を呑み込み湧き上がり続ける真っ黒な壁を見た。高く見上げた。

 

 

                      小4の時

 

                      ボクの膝小僧の

 

                      すり傷の痕の

 

                      かさぶたを見て

 

                      加部ちゃんが

 

                      ボクに言った

 

                      「拓ちゃんの体は生きようとしてる」

 

                      その日は休みで

 

                      自転車に乗って

 

                      埠頭まで行って

 

                      海を見たっけね

 

 

                               

                                           了