福井県の熊川宿は若狭と京都との交易の拠点として発展した宿場町。
日本海の恵を京都に送り届けるとともに、古くから大陸との交易で栄えてきた町です。
その伝統的な町並みが今に残り、重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されています。
■町並みの特徴
妻入り、平入の主屋が混在し、曲がった道から変化ある町並みとなっているのが特徴です。
主屋の前には用水路が流れ、石橋がかかり、洗い場が設けられています。
歴史ある建物、山を背景とした緑、そして川の流れから、ほっと感じさせる場となっており、江戸時代の旅人も同じ思いを持っていたことと思います。
■役場
役場は昭和の建築。
熊川宿の観光拠点となっています。
■住民主体による町並みの維持
熊川宿は、住民組織による町づくり、町の保全が行われています。
店舗は多くなく、住宅がほとんどで生活主体の重伝建です。
お店は、住民票を置いている人しかできなくしているそうで、町並みのコントロールも住民が行っておられます。
外部から移住者され、住民票を移し営業している方もおられるそうです。
このような意識の町でもあり、
町の方とお話ししていると、重伝建地区となり、洗濯もの道路側にほさなくなった、また布団もほさなくなった、とのこと。
■重伝建になっての改修
重伝建に選定され、
電柱の地中化、路面改修、川の護岸をコンクリートから石積み改修などをされ、現在の町並みをつくり出しておられます。
◇重伝建前
◇現在
建物前もきれいに整えておられ、住民の皆さまが熊川宿の町並みを守ろうとする意識の高さを感じるものです。
■信長、秀吉、家康が同日に泊まった熊川宿
この戦国三傑が同日に泊まった熊川宿。
織田信長は、1570年に木下藤吉郎(後の秀吉)や徳川家康を従え、越前の朝倉義景を討つため京都から敦賀へ向かう際、熊川で一泊しています。
得法寺に泊まった家康は翌朝出発に際し、境内の松に腰を掛けたと言い伝えられています。
さらに、その2日前には、明智光秀が先遣隊として熊川に入っており、歴史的な舞台の場でもあります。
その後、信長は敦賀において朝倉氏を攻めますが、浅井長政の裏切りにあい、熊川から朽木を抜けて命からがら京都へ逃げ帰り、
藤吉郎と光秀らが殿(しんがり)となって迫る朝倉・浅井軍を防いだとの歴史が残っています。