ふ城下町の町並みが残る丹波の篠山城。
石垣がみごとです。
築城は、江戸初期の1609年。
大坂城の豊臣秀頼の存在を警戒する家康が、秀吉の元家臣の豊臣系大名を動員して築いたのもの。
いわゆる天下普請(てんかぶしん)と呼ばれる、他の大名の財力を消耗させるために行なった築城・修理補佐の命令で、作業にかかる材料費や人件費など各大名が負担させています。

工期はなんと、約半年。
命じられた20大名が 総勢8万人の労力による大工事です。
今でいうと、戸建て住宅の工期と変わらず、考えられないものです。
相当無理をさせたものに違いありません。

築城のトップにたったのは、藤堂高虎。
家康は、高虎を駿府城まで呼び寄せとにかく急がせたようです。

■石垣
そりたった、威嚇ある石垣は、
高虎らしさを感じさせます。

伊賀上野城の石垣と重なるものがあります。
野面積みの石垣は、
滋賀から穴太衆(あのうしゅう)の技術者を呼び寄せたもの。
築城を急がせたため、大阪城のように石を切る時間がなかったものと思われます。

石には刻印が見られます。
大名が手配した石を間違えないようにする意図。
今となっては、刻印さがしも楽しみのひとつです。
また、写真のような防御性高さは、高虎ならではです。

馬出(うまだし)が埋め立てられずに、そのまま今に残っていることも貴重です。
城の出入り口である虎口(こぐち)の外側を守るためにつくられたもので、
戦国時代から江戸初期にかけて考えられた城郭の防御を、高虎が完成させたものです。

■天守
石垣だけで防御性が高いものとなったため、それ以上を恐れた幕府は天守閣の工事を中止。
5年後の1614年から行なった冬の陣に向けた、大坂への戦い優先させたこともあるようです。
天守はこのような平地で、八上城址がのぞめます。

■大書院
大書院は天守のなかった篠山城で政務を行う中核施設でした。

明治以降も解体されずに、大書院は残りましたが、1944年失火により消失。
現存していれば、国宝か重要文化財だったことと思います。
2000年に木造で忠実に再建され、復元された大書院を見ることができます。築20年を超え建物に落ち着き感が出てきています。

上段の間などを備え、二条城の二の丸御殿と類似しています。
二条城は、将軍が上洛したときに宿所となった建物であり、篠山城大書院は一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものといえます。 

歴史をたどりながらみる篠山城は、見どころが満載です。