神護寺(じんごじ)は、

京都高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、秋は紅葉の名所です。


平安京遷都の提唱者であり、新都市造営の推進者であった、和気清麻呂に由来し、

空海が唐から帰国後14年ここで過ごし、弟子とともに造設・整備が進めた寺院。

空海は、その後東寺、高野山へと移り住みます。

 

■起伏に富んだ参道

周山街道からの起伏に富んだ参道が他になく、歴史深さを感じます。

女人禁制の碑、江戸時代までこの先女性は立ち入りできなかったそうです。

写真右は下乗の碑。

鎌倉時代の石碑で、この先は身分に上下に関わらず馬を降りての参道。

このような参道です。(神護寺パンフレットより)

 

■別世界の平地

長い階段を上がると、そこは別世界の平地

 

空海の時代に石垣を重ねて、土を踏み固めて平地をつくったとのこと。

重機もない平安時代に人の手による大作業だったことが容易に推測できます。

 

■焼かれ、壊された歴史

これだけ歴史ある寺院ですが、

建造物の文化財は太子堂のみ。

 

応仁の乱の兵火によって建物のすべてを焼失。

江戸時代に再興したものの、明治維新後の廃仏毀釈によって、開創以来維持されてきた寺域は分割・解体され、支院九と十五坊は焼失、別院二ヶ寺と末寺のすべては他寺に移設。
 

■太子堂(重要文化財)

このようななか、江戸時代の建物が唯一残る、文化財。1614年建立、築400年。

入母屋造、杮葺きの住宅風の仏堂。

空海の住房であった「納涼房」を復興、再建した三代目建築。

石垣にて造設された土地に建っています。

 

■金堂

1934年(昭和9)年、実業家山口玄洞の寄進によって建立。

本堂は階段下の毘沙門堂にあったものをここに、新設して移設。

歴史ある寺院では、珍しい経緯です。

築後約90年たち、

本堂としての風格があります。

 

■頼朝画

神護寺は、空海の後もその弟子達によって護持されていましたが、平安末期には衰退。
その再興に尽力したのが文覚上人(もんがくしょうにん)。

後白河法皇や源頼朝もその再興を援助。

 

その関係もあり、

教科書等でよく見かける、源頼朝画を所蔵されています。

普段は京都国立博物館に保管しているものを、宝物虫払い行事として、神護寺でこのように年1回公開されるそうです。(写真は、神護寺HPより)