世間で騒がれていることを静かに聴いていると「そんなにみんな誤りなく、正しく生きているのかな」と思ったりもする。

思い込みが強く働き、ある現実を誤認して記憶することもあろうし、あまりの酷い出来事を記憶から消し去ることもあろうし、特殊な環境に置かれ過ぎて、世間とは違ったところで心が動くこともあろうし、また売り言葉に買い言葉となることもあろう。

もちろん公の場やシチュエーションなどにより、あえて正論でおさなければならいこともあろうが、「そういうこともあるな」と受け流すことはできないものか。完璧な人などなく、誰もが幾ばくかはスネに傷をもつものであろう。

それをムリクリとおしまくっても、今も昔も「記憶にありません」とした答えが返ってくるだけである。孫子の兵法ではないが、真に得たいものを得るには「敵を知り己を知れば百戦危うべからず」である。

「嘘や悪行を許せ!」というのではなく、「悪を憎んで人を憎まず」というではないか。どんな相手でもまずは心に受け入れてみれば、案外に攻めの糸口が見えてくるのではなかろうか。

「正義は我にあり!」と攻めまくってみても、周囲の目は攻められる側に情が湧く場合もある。また攻め手に心を見透かされ、堂々と受け答えれては正義も糞もない。かえって人を責めることに終始すれば、大事な問題からはどんどんと遠のいていくことになる。

向き合うべき、攻めるべきは人ではなく問題の根っこにある悪である。「悪」となれば抽象的だが、それを具体的に浮き彫りにできるのが人の知恵ではなかろうか。

問題を見つけて糾弾することは誰にもできるが、それをどう上手に収拾し、片付けるかは誰にでもできることではない。人物としての器と力が試されている。