どこかで聞いたことがあるような、ダヴィンチが 記した童話。
火打ち石に、いきなり頭を叩かれて、石はかんかんに 怒ってしまった。けれど火打ち石は、 にっこり笑っていいました。
「がまん、がまん。がまんが大切。これががまんできたら、わたしは、あなたの身体から、すばらしいものを引き出してあげますよ」
そう言われて石は、機嫌をなおし、叩かれるのをじっとがまんした。すると、身体からきれいな火が、ぱっと生まれたのです
これだけ読むと何か釈然としないところもある。火はもともと身の内にあったもので、叩かれなくても出たんじゃないかと。(笑)ただ、そんな真実もあるかもしれないが、得てして人は叩かれて真価を発揮する不思議な生きものである。
父の言葉でなぜかはっきりと記憶に留めているのは、この“がんまん”の美徳を歌う「ならぬ堪忍するが堪忍」とのことわざ。「忍辱鎧を着る」ともいうが、忍辱とは苦難が過ぎるのを静かに待つことではなく、意志をもって乗り越える心の内なる闘争であり、
鍛えの溶鉱炉ともいえるときであろう。
そこにしか、人としての真の成長はないといえば言い過ぎであろうか。忍辱の身体から生まれるきれいな火は、多くの人を温かく明るくつつむ光りを発するに違いない。
火打ち石に、いきなり頭を叩かれて、石はかんかんに 怒ってしまった。けれど火打ち石は、 にっこり笑っていいました。
「がまん、がまん。がまんが大切。これががまんできたら、わたしは、あなたの身体から、すばらしいものを引き出してあげますよ」
そう言われて石は、機嫌をなおし、叩かれるのをじっとがまんした。すると、身体からきれいな火が、ぱっと生まれたのです
これだけ読むと何か釈然としないところもある。火はもともと身の内にあったもので、叩かれなくても出たんじゃないかと。(笑)ただ、そんな真実もあるかもしれないが、得てして人は叩かれて真価を発揮する不思議な生きものである。
父の言葉でなぜかはっきりと記憶に留めているのは、この“がんまん”の美徳を歌う「ならぬ堪忍するが堪忍」とのことわざ。「忍辱鎧を着る」ともいうが、忍辱とは苦難が過ぎるのを静かに待つことではなく、意志をもって乗り越える心の内なる闘争であり、
鍛えの溶鉱炉ともいえるときであろう。
そこにしか、人としての真の成長はないといえば言い過ぎであろうか。忍辱の身体から生まれるきれいな火は、多くの人を温かく明るくつつむ光りを発するに違いない。