幕末の物語りである「花燃ゆ」の視聴率がよくないと聞く。
松陰は、私の目指す偉人の一人だが、
短い人生で目に見えて成し遂げたものは少ない。
私見でいえば、松陰の成し遂げたものは「心の革命」である。
その心の革命の連鎖が、維新回転の大きな原動力を生んだ。
いわば捨石のようにもみえるが、身をもって一石を投じたわけである。
晩年、松陰はぐずぐずとしてときを待つ玄瑞や晋作たちに対して、
「われは忠義を為すつもり、汝は功業を為すつもり」との
厳しい言葉を送りつけている。
私も、始まる前には「花燃ゆ」にあまり興味はわかなかったのだが、
ある大先輩に「おもしろいから観た方がいい」といわれ、
遅ればせんがら観始めたものだ。
だが、なかなかの試みではないかと思っている。
「言葉」を大事にし、登場人物の内面を描きたいのではと。
それだけに見た目の変化(ドラマの展開)として乏しいところが、
視聴率に結ばない理由かもしれない。
ただ心を描くには、もう少し詳細にまで踏み込んだ方がいい。
まだまだもの足りないが、「野山獄」を描いたのはいい。
私の好きな一つに、思想家ツヴァイクのこんな言葉がある。
「誰か、かつて流罪をたたえる歌をうたったものがいるだろうか?
嵐の中で人間を高め、厳しく強制された孤独のうちにあって、
疲れた魂の力をさらに新たな秩序のなかで集中させる、
すなわち運命を創りだす力であるこの流罪を、
うたったものがいるだろうか?
自然のリズムは、こういう強制的な切れ目を欲する。
それというのも、
奈落の底を知るものだけが生の全てを認識するのであるから、
突き放されてみてはじめて、人はその全突進力が与えられるだ」
(「ジョセフ・フーシェ」山下肇訳)
人生のうちに誰もが、大なり小なりこうした清算する節目が必要である。
清算というのは、けして過去を否定するものではない。
ある意味では、どんな過去であったとしても肯定する作業であろう。
私は、どんな(客観的に良くも悪くも)過去であれ、
過去を否定しては未来の希望はなく、
むしろ肯定こそが未来への前進の力が生まれるものと思う。
求めて「強制的な切れ目」を欲する人などはなく、
やはり天の采配の時ともいうべきか。
過去を肯定し、現実を受け入れることから未来は開かれる。
花はそれぞれ咲く(燃ゆ)ときを知る。
「時を知る」ことの大事さであろう。
松陰は、私の目指す偉人の一人だが、
短い人生で目に見えて成し遂げたものは少ない。
私見でいえば、松陰の成し遂げたものは「心の革命」である。
その心の革命の連鎖が、維新回転の大きな原動力を生んだ。
いわば捨石のようにもみえるが、身をもって一石を投じたわけである。
晩年、松陰はぐずぐずとしてときを待つ玄瑞や晋作たちに対して、
「われは忠義を為すつもり、汝は功業を為すつもり」との
厳しい言葉を送りつけている。
私も、始まる前には「花燃ゆ」にあまり興味はわかなかったのだが、
ある大先輩に「おもしろいから観た方がいい」といわれ、
遅ればせんがら観始めたものだ。
だが、なかなかの試みではないかと思っている。
「言葉」を大事にし、登場人物の内面を描きたいのではと。
それだけに見た目の変化(ドラマの展開)として乏しいところが、
視聴率に結ばない理由かもしれない。
ただ心を描くには、もう少し詳細にまで踏み込んだ方がいい。
まだまだもの足りないが、「野山獄」を描いたのはいい。
私の好きな一つに、思想家ツヴァイクのこんな言葉がある。
「誰か、かつて流罪をたたえる歌をうたったものがいるだろうか?
嵐の中で人間を高め、厳しく強制された孤独のうちにあって、
疲れた魂の力をさらに新たな秩序のなかで集中させる、
すなわち運命を創りだす力であるこの流罪を、
うたったものがいるだろうか?
自然のリズムは、こういう強制的な切れ目を欲する。
それというのも、
奈落の底を知るものだけが生の全てを認識するのであるから、
突き放されてみてはじめて、人はその全突進力が与えられるだ」
(「ジョセフ・フーシェ」山下肇訳)
人生のうちに誰もが、大なり小なりこうした清算する節目が必要である。
清算というのは、けして過去を否定するものではない。
ある意味では、どんな過去であったとしても肯定する作業であろう。
私は、どんな(客観的に良くも悪くも)過去であれ、
過去を否定しては未来の希望はなく、
むしろ肯定こそが未来への前進の力が生まれるものと思う。
求めて「強制的な切れ目」を欲する人などはなく、
やはり天の采配の時ともいうべきか。
過去を肯定し、現実を受け入れることから未来は開かれる。
花はそれぞれ咲く(燃ゆ)ときを知る。
「時を知る」ことの大事さであろう。