fbの友人の紹介に、アンセル・アダムスの言葉として書かれた、
「ネガは楽譜、プリントは演奏」との言葉が気になり、
いや、いや、意味の理解も及ばずに思索している。
その背景には目に見えない世界を、どう見えるものとして表現できるか、
ということに大きな関心がある。
人間とはいえども、私は無いものを創造できるとは思わない。
確かに存在するが、カタチや色がなく目では捉えられないものを、
それらを限りなく迫ったものを、生み出すのが“創造”だと思う。
ゆえに、たとえば同じ風景でも見る人によって違うはずで、
絵画を見ても、音楽を聞いても、それが分る。
映画「アマデウス」の中で確か、作曲についてモーツァルトに、
こんなセリフを言わせている。
「自然に流れる音楽を、そのまま楽譜に描いているだけだ」。
写真にも、音楽にも無知なだけに悩むところである。
このセリフを頼りに、ネガはその作業をカメラが果たすことになる。
そうすると、人の用とは何だろう?
単に対象と範囲を示すだけではないように思う。
たとえ人工物であったとしても、
人の心はカメラに何らかの働きかけをしていると思いたい。
そこで、
カメラを通じてメディアに蓄積されたRAWファイルを再び現像するわけである。
つまり楽譜として視覚化されたものを、
再び演奏で再現するのと似ているということだろう。
ただし選ぶ楽器や形態によっても異なり、殊に演者によって違ったものにもなる。
そうしたことが写真でも起こり得るとすれば、
やはり楽譜から、視覚化されていない作曲者の心が読めるように、
ネガからも、RAWファイルとして視覚化されていない何かが読み取れるに違いない。
それは理屈で説明することのできないものかもしれないが、
生来、誰もが感じられるものであるに違いない。
「ネガは楽譜、プリントは演奏」との言葉が気になり、
いや、いや、意味の理解も及ばずに思索している。
その背景には目に見えない世界を、どう見えるものとして表現できるか、
ということに大きな関心がある。
人間とはいえども、私は無いものを創造できるとは思わない。
確かに存在するが、カタチや色がなく目では捉えられないものを、
それらを限りなく迫ったものを、生み出すのが“創造”だと思う。
ゆえに、たとえば同じ風景でも見る人によって違うはずで、
絵画を見ても、音楽を聞いても、それが分る。
映画「アマデウス」の中で確か、作曲についてモーツァルトに、
こんなセリフを言わせている。
「自然に流れる音楽を、そのまま楽譜に描いているだけだ」。
写真にも、音楽にも無知なだけに悩むところである。
このセリフを頼りに、ネガはその作業をカメラが果たすことになる。
そうすると、人の用とは何だろう?
単に対象と範囲を示すだけではないように思う。
たとえ人工物であったとしても、
人の心はカメラに何らかの働きかけをしていると思いたい。
そこで、
カメラを通じてメディアに蓄積されたRAWファイルを再び現像するわけである。
つまり楽譜として視覚化されたものを、
再び演奏で再現するのと似ているということだろう。
ただし選ぶ楽器や形態によっても異なり、殊に演者によって違ったものにもなる。
そうしたことが写真でも起こり得るとすれば、
やはり楽譜から、視覚化されていない作曲者の心が読めるように、
ネガからも、RAWファイルとして視覚化されていない何かが読み取れるに違いない。
それは理屈で説明することのできないものかもしれないが、
生来、誰もが感じられるものであるに違いない。