忙しなく動きまわりながら、何か大切なことを見落としている気がする。
気のせいだろうか?

さて、「今」何が大切か。
時を区切って言うものでもないのだが、
やはり、何かを考えるには「時」を知らなければならない。

「冬種子を下して春菓を求る者にあらずや
 鷄の暁に鳴くは用なり宵に鳴くは物怪なり」という。

チャンスくんの話をしたいと思う。
「その話、知ってる」という人は多いに違いない。
チャンスくんには前髪しかない。(後ろ髪がない)
だからチャンスくんを見たら、すぐにその前髪を掴まなければ
通り過ぎて、振り向きざまに掴もうたって、もう掴むところがない、というものだ。
チャンスくんにすればいい迷惑で、
「人の少ない髪を掴まなくったっていいでしょ。言えば分るから」っていいたいはず。
ただ、掴む方は「ちょろちょろして、言う間にいなくなるだろう」ってことか。

問題はそこではない。
後ろ髪がないというチャンスくんの特徴は、正面から見ても分らないのだ。
だから、大概の人がこの話を聞いていても、
いざ、チャンスくんと出会っても、チャンスくんとは気づかずにやり過ごしてしまう。

こうなればチャンスくんを掴むには2つしなかい。
1つは、とにかくだれ彼かまわず、目の前に現われた奴の髪は全て掴む。
これの弱点は、間違えて疫病神の髪を掴んでしまう可能性があること。
どれくらの確率でチャンスくんに出会うのだろうか。それが重要だ。
もう1つは、チャンスくんだと見抜く心眼を磨くことだ。
磨くからには、一朝一夕にはいかない。多少の時間がかかる。
だが、心眼さえ磨いておけば、
これこそ鬼に金棒で、チャンスくんを逃すことはない。

どうやって磨くかについては、また今度の機会にするとして、
私の「心眼」のイメージは、
宇宙というか、自然というか、外に大きく開かれた心の眼である。
見るというよりは、聴くに近いのではないだろうか。
なぜなら、五感の中で耳と鼻は外に常に開いている。
目は自分の意思で閉じることはできても、
耳は24時間365日片時も閉じることはない。
それは、心(脳)に直結しているのだ。物理的にもそうだろう。

むしろ喧騒の中で目を閉じて、静かに心の声を聞いてみる。
どんな喧騒の中でも、静かに心の内の声を聞くことができる。
それが、磨かれた心眼というものだと思う。

磨かれた心眼、いや心眼を磨きながら、時に静かに心の内の声を聞いてみる。
大なり小なり、案外にたくさんのチャンスくんが
私たちの周りにはちょこまかちょこまか動き回っている。
残された前髪を掴まずとも、
チャンスくんと分れば、慌てずに優しく手招いてみるといい。
チャンスくんだって、優しく手招かれると近寄って離れたくなくなるものだ。
そして、チャンスくんがチャンスくんを呼び、
あなたの周りをグルグルとまわって、
溶け合って大きなチャンスくんになるんだよ。

けしてチビクロサンボの虎のバターじゃないよ。
チャンスくんだって、楽しく皆と遊びたいのさ。
だから、明るく楽しく心眼を磨きましょ。

次回は心眼の磨き方。