政界やら何やらで世情は騒々しいようですが、
少し静かに「自分らしさ」について考えてみました。

「自分らしさとは」と聞かれて、何と答えるでしょうか。
なかなか答えに窮するというより、
人生そのものが、その答えを求めての旅のようです。
そうそうに答えがでない。
だから、おもしろいとも言えるし、前進できるともいえる。

思いの丈を叫び、突進する。
ぶつかり、傷つき、苦しみ、思い、悩み、それでも前進する。
原木が削られ、削られて1つの像と表れるように、
原石が磨かれ、磨かれて特異な輝きを放つように、
「自分らしさ」がつくり上げられていくのでしょう。

そうならば、「自分らしさ」を自ら知ることは難しい。
なぜならば、まだカタチにも、輝きにも表われていないから。
そして、それらをまず認めるのは自分ではなく、周囲となるから。
もし、それを自分で知るとなれば、
それは、自らの思いがそのまま他者に伝わるという心地よさであろうか。

孔子は「60歳にして耳従う。
    70歳にして心の欲するところに従えども則を超えず」という。
孔子にして60~70年間もかかるのだから、
そうそう焦っても、知れるものではないだろう。

彫刻師はいう。
「原木に表れた像を彫った過ぎません」と。
原木の思いに動かされたということだろうか。
原木にも思いがある。原石にも思いがある。
ならば、大切なことは何だろう。

「どういう哲学、人生観を持っているかで、
 人間の価値は決まる」という。

「自分らしさ」というやさしい音調に安住することなく
厳しい現実の中で葛藤しながら、
自らの哲学、人生観を彫り進め、磨き続けることでしか、
結局、自分らしさを体現することも、覚知することもできないに違いない。