「瞋恚は善悪に通ずる」と聞いたことがあるでしょうか。
よく考えれば、確かに相反する2つのことを完全に切り離すことはできません。

先日、ある説話を読みました。
それは、子どもが欲しいとの切なる願いを持った或る資産家が、
庭にある大樹に願を掛ければよいとの夢をみたことから始まります。
いうまでもなく
彼は朝夕にその神聖な大樹に「子宝に恵まれますように」と願を掛けます。
しかし、数年の月日が流れても願はかないません。
そこで、彼はその大樹に向かって
「いついつまでに願が適わなければ切り倒す」と脅します。
もちろん、これは真剣な脅しです。
それには、
これまで夢でみたお告げのままに実践してきたこと。
もう1つは、それが十分な時間を掛けた渡る実践であること。
この自負によるものです。

さて、ここで皆さんはどう感じることでしょうか。
「幾ら何でも不遜である」とか
「あくまでこちらの勝手な願であって、そんな強要できるものではない」とか
と思う人は少なくないはずです。

だが説話では、大樹に宿る神はあわてふためいて天上の神に相談します。
その結果、「彼の怒りは最もである」との結論で、
近く亡くなる神がいるから、その神を彼の子としようということになり、
まもなく、彼の妻に子が宿ります。
その子が迦葉尊者であり、冒頭の言葉の語源となります。

もちろん、それなりの背景が必要なことは当然ですが、
「瞋恚」つまり怒りが物事を動かすことがあるのです。
大事なことには、妙な納得やあきらめは排して、
厳たる態度で怒りを表すことは必要です。

子どもが道を反れた時に、
真剣に叱れない親や教師であってはならないでしょう。
それは国家間や企業間、地域間、近隣においても同じことです。
為すべきことを為して、しっかりと怒れる人になりたいものですね。
その人を、けっして「更年期障害」などとは言わせませんよ。