ハンマー投げの室伏広治さんは、30代半ばを過ぎて金メダルをとりました。
その練習法は、繰り返しの慣れを排して、常に体が緊張感を維持するために、
腰やバーベルに鉄球を下げて、その揺れを利用しました。

どこかに身を置き(所属し)続けていると、心はその場所にすぐに依存します。
安住だと思っていたものが、いつしか心が硬直して柔軟性を失ってしまう。
周囲を見わたせば、そんな例はいくつもあります。

前に紹介した「脳科学者と禅僧の問答」には、禅僧の南直哉さんのエピソードが紹介されています。
「和尚さん、死んだら私は良いところへ行けますか」と95歳のおばあちゃんに問われ、
「行けるに決まってるじゃないの。こんなに努力して、一生懸命がんばったおばあちゃんが良いところへ、
行けなくて、どこに行くんだ」と南さんは答えました。

ごく当たり前の対話です。
だけど、南さんは「仏教の教理の話だったら『無記』のことを教えて、あるともないとも言えませんよ」と。
そして「もし普遍的かつ絶対的な基準がどこかにあって、仏教で間違ったことを言ったら地獄に落ちると
決まっているとするならば、落ちる覚悟で言わないといけない。仏教者というものは、そういう立場にある
人間だと思うのです」と言います。

なるほど。ただ、果して「仏教者」だけの話かというと、けっしてそうではないでしょう。
たとえばマスコミも“客観性”ということに囚われて、いや隠れ蓑にして
この“責任”から逃れていると思えなくはありません。
「言葉はその瞬間に情報になって浮遊していってしまう」と南さんは言います。
何のリアリティもない言葉、ただカタチだけの情報をまき散らすなら、
「なにも人間がやる必要はない」とさえ思ってしまいます。

長く1つの場所に腰を下ろし続けてきた人なら誰もが、必ず陥ることではあるでしょう。
だからこそ、まず自覚して、室伏さんのように依存しようとする心を絶えず揺さぶり、
成長し続ける柔軟性を失ってはならないと思います。

カタチのない心は、カタチあるものに依存しようとする性がある