数か月に渡り、ともに進めてきた計画。
もう少しで完成するところで、テーブルを返した。
ある日から、面識のないもう一人が加わり、対応が一夜で豹変した。
「顔つきがまるで変った」との感想、その計画から身を引くこととなった。

こんな話を聞き、ふっと思ったことがある。
何かに目がくらんだのだろう。人間の悲しい性である。
心が、我が身を離れて、
よく知りもしない何か別のモノに移り、囚われてしまったのであろう。
長年親しんできた身をあっさりと捨てるなんて、
あまりにも寂しい話である。
一体、今まで心と体はどんな付き合い方をしてきたのだろうか。
仮に私自身であれば、これまでの生き方を反省する。

心でなくても、カタチがなく目に見えないモノは、
かたちある。目に見える存在に依りたいと思うものである。
ゆえに、何かに心が動くことはしかたないが、
必ず、もとの居場所(体)に戻ってくるような
付合い方をしていなければならない。
日々の生活はいわば、その訓練ともいえる。

本来の場所を見失った心、囚われた心は
いつしか固く、小さく萎んでゆくものだ。
なぜなら、囚われた仮の場所からは、必要な栄養が取れないからだ。
そして、心を囚われてしまった体は
浮き草のように、ふわふわと目的なく彷徨うこととなる。

何かに心を囚われて、人を利用し、裏切ることは
自らの心が体を裏切ることであり、末路は哀れである。
そうならぬためにも、日々の鍛練を心がけ
怠らず実践しておくことである。