最近、考えさせられることが多い。
秋が深まるゆえか。
空がこんなに青いゆえか。
木々が実りの匂いを放つゆえか。
「身子が六十劫の菩薩の行を退せし
乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ」
これは、かなり優秀な仏弟子が「菩薩行」という修行をしている時のこと、
色々な苦難に堪えて、もう少しで完成するところで
突然に修行を断念した理由です。
こんなシーンかな。
乞食(もちろん人間ではない)が「あなたの眼が食べたい」という
まぁ、かなり我儘なお願いですが、
修行者は「いよいよ来たな。ここが正念場」と思い、
何の躊躇もなく乞食の要求に応えて、自らの眼を渡します。
(眼を抉り取るところなんかは想像しないでください)
たぶん、これで「仏になれる」と心には歓びが湧いていたかもしれません。
ところが、その乞食は「こんな臭い眼は食えない」と言って
修行者の目の前で足で踏みつぶされるしまう。
さて、想像してみてほしいのですが、
あなたなら、どんな気持ちになるでしょうか。
瞬時に、彼の心は怒りに満たされたに違いありません。
その感情を抑えきれず、その場で長い年月に渡る修行を断念したわけです。
もちろん、直情による判断であり、理性など働く余地はありません。
(感情が引くに従い、後悔の念が湧いてきたでしょう)
ある意味、身構えてさえいれば、
どんな外的による苦難堪え忍ぶことができる。
だが、ふっした心の隙に入り込んだ魔を見破ることは難しい。
それが、誠意を示した対応への、あまりに理不尽な応えであっただけに
自らを見失ってしまったのでしょう。
こんなことは身近にもよくあることだと思う。
だが実は、これこそが真の勝負どころであり、
成否を分かつ正念場、瀬戸際であるわけです。
泣いても、笑っても、
一切の努力を実にするか、無にするかの別れ道、
これが、人生の本質なかもしれません。
秋が深まるゆえか。
空がこんなに青いゆえか。
木々が実りの匂いを放つゆえか。
「身子が六十劫の菩薩の行を退せし
乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ」
これは、かなり優秀な仏弟子が「菩薩行」という修行をしている時のこと、
色々な苦難に堪えて、もう少しで完成するところで
突然に修行を断念した理由です。
こんなシーンかな。
乞食(もちろん人間ではない)が「あなたの眼が食べたい」という
まぁ、かなり我儘なお願いですが、
修行者は「いよいよ来たな。ここが正念場」と思い、
何の躊躇もなく乞食の要求に応えて、自らの眼を渡します。
(眼を抉り取るところなんかは想像しないでください)
たぶん、これで「仏になれる」と心には歓びが湧いていたかもしれません。
ところが、その乞食は「こんな臭い眼は食えない」と言って
修行者の目の前で足で踏みつぶされるしまう。
さて、想像してみてほしいのですが、
あなたなら、どんな気持ちになるでしょうか。
瞬時に、彼の心は怒りに満たされたに違いありません。
その感情を抑えきれず、その場で長い年月に渡る修行を断念したわけです。
もちろん、直情による判断であり、理性など働く余地はありません。
(感情が引くに従い、後悔の念が湧いてきたでしょう)
ある意味、身構えてさえいれば、
どんな外的による苦難堪え忍ぶことができる。
だが、ふっした心の隙に入り込んだ魔を見破ることは難しい。
それが、誠意を示した対応への、あまりに理不尽な応えであっただけに
自らを見失ってしまったのでしょう。
こんなことは身近にもよくあることだと思う。
だが実は、これこそが真の勝負どころであり、
成否を分かつ正念場、瀬戸際であるわけです。
泣いても、笑っても、
一切の努力を実にするか、無にするかの別れ道、
これが、人生の本質なかもしれません。