痛み


ある番組で、
歌舞伎役者の松本幸四郎さんが
お父さんの術後の様子を語っていた。
麻酔のかけられない状況だったのか
幸四郎さんが、お父さんに
「痛かったですか」と問うた。
それに、お父さんは
「痛かったのかな」と答えたようだ。

人間は、
いったいどれほどの痛みに耐えられるのか、との意味のようだ。

かつて
メル・ギブソン監督の映画「パッション」が話題となった。
イエス・キリストの最後の12時間を描いたもので
イエスが鞭で打たれ、十字架を背負わされ
そして処刑されるシーンが、
リアリティをもって、生々しく描かれているからだ。

とくに鞭で打たれるシーンは、
身に食い込む鞭の音や
床に飛び散る鮮血の映像から
イエスの苦痛が、ひしひしと伝わってくる。
僕は、映画を見終わった後に
しばらく言葉を失ったほどだ。

まさに、イエスは
「人間は、いったいどれほどの痛みに耐えられるのか」を現じた。
痛みによっては、気を失うこともあれば
死にいたることもある。
痛みは大小によらず耐えがたいもの。
本当に、人間はどれほどの痛みに耐えられるのか
痛みに限ったことではなかろうが、
人間の持つ潜在能力は図りがたい。

しかし、その潜在能力を引き出すのはいったい何か。
使命感ではなかろうか。
それは、生き抜く力であり
痛みの意味を知ることでもあろう。
神を恐れずに
僕の想像で言えば、
イエスが、苦痛に耐え抜いたのは
耐え難い苦痛の中で
虐げられた民の苦痛を
実感したからに違いない。

民の苦しみを
わが苦しみとして
同苦に生き抜く彼にとって
耐えることのできない苦痛などなかったに違いない。
たとえ、それが死に至る苦痛であっても・・
まさに、殉教である。

だからこそ
民もまた、努めて自らに同苦して生きんとする
そのイエスの姿を慕い
神と仰いだのでろう。