日本人

名前のない人がいるだろうか。
僕の名前は「健児」。
父親が、辞書から見つけたのだそうだ。
だから、辞書に意味が載っている。
「血気盛んな青少年」
その意味通りかどうかは置いといて。

漢字には意味があり、子どもの命名には
少なからず、両親の思いや希望が込められている。
海外へ行くと
よく名前に意味があることをうらやましがられる。
自身の名前に不満な人もいると思うが、
長年付き合うのだから、愛する努力も大事だと思う。

ゴーゴリ著作の「外套」を読んだことがあるだろうか。
その冒頭には、1ページほどついやして
主人公の名前の由来が描かれている。
それが、ストーリーに大きくかかわっているとは思えない。
「どうしても他には名前のつけようがなかったといういきさつを、
 読者にとくと了解していただきたい為に他ならないのである」と

宮崎駿氏の代表作「千と千尋の神隠し」は見た人も多いと思う。
そのタイトルからもわかるように、
物語の展開に「名前」が重要な役割を担っている。
クライマックスで白龍が、
自身の名前を思い出すシーンは圧巻だ。
まさに名前こそが現実の世界に戻るキーワードであり、
自分の存在や、居場所を示すものである。

ここからは僕の妄想だが、
高校時代に学んだデカルト氏の言葉
「我思うゆえに我あり」が心に深く刻まれている。
確かな実存を求め抜いた哲学者らしい
思索の末に辿りついた結論であろう。
すべてを疑い尽くしても、なお疑えない実存
それが「我」であったのか。
到底、常人にはできない心の探求である。

しかし、それはあくまで哲学のうちにあり、
思考のうちから出たものではない。
つまりデカルトの言う「我」とは何か。
僕は、それこそが「名前」のような気がしてならない。

「我」に至ったところで現実にどんな影響があろうか。
むしろ「私はデカルトである」との自覚の方が、
現実への影響は大きいように思う。
事実、こうした哲学的な発見も、
デカルトとして時代を超えて伝えられたのであって
たとえば「或る人」の発見であれば、
果たして歴史に残ったであろうか、疑問である。

「おぎゃ~」とこの世に生まれ、
もちろん、その時点で固有の人格を有していることはいうまでもない。
しかし、まだそこまでは「赤ちゃんA」である。
命名された時点からはじめて
世界で唯一の1人として周囲から認識されるのだ。
もちろん人間だけが名前を持つものではないが、
名前を持つことから、
自分らしい歩みが始まるのだと、僕は思う。

なぜか、渡米を控えた大学時代
身の周りにあるもの全てに
名前を付けたいとの衝動に駆られ、
マジックで片っ端から落書きしたことがある。
笑ってください。