はや十月、もう年末が射程に入ってきた。思えば、今年は色々と新しいことを企画したが、どれもが何かしらの要因で断念を余儀なくされてしまった。
この秋は、台風24号の絶妙な到来で予定していた帰郷の航空機が欠航し、これまた断念。大坂なおみちゃんでなくても、「我慢」の必要な年であると痛感する。「我慢」といっても単に精神的な問題ではなく、そこには体力や健康といったことも不可欠だ。
学生時代に、相撲部の先輩が「肉体的な鍛えは精神を深め、深められた精神は肉体を活性化する」というようなことを言っていたことを思い出す。
また若き日に父がよく言っていた言葉を思い出す。それは、あの「成らぬ堪忍するが誠の堪忍ぞ」である。確か、赤穂浪士の物語の発端となった松の廊下で刃状沙汰に及んだ浅野内匠頭を止めようとした言葉ではなかった。
古から「我慢」はむずかしいものだ。それは「仏」のことを「能忍」と呼ぶことにも表われている。それは、堪え忍ぶ能力を示したものであろう。しかし、ただ堪え忍べばよいといったものでもない。
幼少のころに見ていたアニメの主題に「じっ~と堪えて力を貯めて、そろそろこちらの出番だぜ」といった歌詞があった。我慢は同時にチャンスを見逃さない力でもある。それだけに体力や健康が大切なのである。
好きな言葉に「屈するのは伸びんためなり」との言葉がある。つまり我慢や忍耐は「伸びるため」であり、自らの真の力を十全に発揮するためである。以前に「日本はガラパゴス化している」と自虐的にいう日本人もいたが、それが伸びる原動力とならないと誰がいえよう。
かつて江戸期はほぼ鎖国状態であったところを、欧米諸国から近代武力で迫られて開国したわけだが、その結果はどうであったかはいうまでもない。どんな国や社会、組織・団体、有能な人であっても伸びつづけることなどできない。
伸びるには屈することが不可欠であり、そこに忍耐や我慢の美徳が表われてくるものだろう。その精神性が体力や健康と不可分であるならば、それは日々の精進のなかでしか築くことはできない。
身近な人がよくいう言葉に「大きなことを成す人ほど、大木は悲運に見舞われる」となる。「仏」のことを「堪え忍ぶ能力」と呼ぶのだから、確かにその通りかもしれない。それにしても自然の営みは忍耐強いものだ。