発達障害は学校で生まれる
今は発達障害と診断して戴くのが、日本の義務教育での流行りらしいですが、
何故に教員も父兄も分類したがるのでしょうか?
話は変わりますが、
1999年光市、母子(23歳と幼児)殺害事件での容疑者が、当時18歳だったこともあり
責任能力を鑑み、死刑よりも、精神鑑定の結果、
18歳だとしても、18歳以下の知能レベルだから矯正教育を行って更生させた方が
良いのではないか?という当初の判断でしたが、
覆されて、2008年の差し戻し控訴審では死刑が確定するのです。
現時点でのこれらの情報を、私の目線で分析してみると・・・・・
人格・事件・将来性・寿命とは、生まれる前に決定している場合と
生まれた後に決定する場合があるように思えるのです。
よく・・・医療では、器質疾患と機能疾患という分類に分けられると思うのですが・・・。
つまり、脳に傷があったり、腫瘍などがあったりすれば、
当然テンカン症状や人格的変貌は容易に想像することでしょう。
しかし、交通事故や頭をぶつけたショックで記憶喪失になったり、戦争体験、レイプ犯罪被害者
その他の壮絶な体験の事後より、パニック障害や外出恐怖症、・・・様々な症状が現れて、
PTSDという機能障害を診断されます。
人は、生まれた状況や育ってきた家庭環境によって、ものの捉え方や考え方が変わってきて
それが国家の金太郎アメ教育を施されてきた日本社会において、右習えででない者を
異端児とか・・・変わっているとか・・・天然とか・・・・空気が読めないとか
という表現で、浮いた存在とし、孤立させてしまい、
結果として孤独になった時、
社会での自分の存在意義を否定し始めて、自暴自棄になり易くなり
問題児と称される存在になり、行動を起こすようになるのではないでしょうか?
それを、今度は家庭の親が、自分の子供がどこかおかしいから、発達障害ではないかと疑心暗鬼となり
病院へと連れまわし、発達障害括りの診断書を書いてもらい、投薬により上辺の安堵をしてしまう。
つまり、器質的発達障害ではない、機能的な発達障害はある意味では
自分を信じられない、そして子供を信じられない母親や家庭環境で作られ、
そして学校でも、授業の流れを阻害する者として
加速して作られていくというのが最近の流行りのような気もするのです。
適材適所という言葉が昔からありますが、マルチに何でもできる人間を、
昨今、普通の人間と呼ぶようですが、
昭和の昔は歯磨きが出来て学校に自分で行けるだけでも普通の子と呼ばれていましたが、
令和の今は、ハードルが上げられて、授業を乱さない人間、空気を読める子供、
ハイハイと挙手をしてから発言する子供、大人の言いなりになる子供などを普通の子と呼ぶようですね。
昔から、自閉症や発達障害はあったからこそ、その人が向く仕事に充てて(職人系が向く)
社会の仕組みの凸凹を穴埋めしながら、コミニティーをうまく潤滑させて行く事が常であったはずなのに、
今は障碍者というレッテルを張り、一般社会生活から外れて保護され、擁護されつつ
障碍者年金や障碍者枠就職枠へと導こうとしているのが見え見えです。
きっと世間は言うはずです。
発達障害者がキレて、犯罪を犯すと、半端者だから仕方がないのだと。
・
・
・
でも、私は・・・そうではないと思うのです。
半端者を、一丁前に扱える指導者(社長)の下で働き、喜び合いながら働ける社会を目指す。
モトイ、親そのものが・・・社会そのものが・・・みんな完璧な人間など一人もいないのだという認識を持ち
より良く生きていく、心のゆとり包容力を持つことが出来る社会制度の仕組みづくりが
今求められているのかもしれません・・・と。
だがしかし、1990年頃より始まった・・・分別・診断競争社会は
今後益々、細分化されて、あなたは発達障害
あなたはアスペルガー症候群
あなたはHSP
あなたは○○病・・・のように、
国民全員が病名を付加されて、グループ化されていくことになっていく事でしょう。
それが故に、裁判官は○○病が故に犯罪を犯した。
などという言い方で、同情や納得される報道が成される未来が待っているのかもしれません。
そもそもの理由は何なのだろうか?
と考えてみた時に
リーマン化社会・核家族生活が原因ではないでしょうか?
昔は、大家族で農業などを営みながらのんびり、比較的自由に暮らしていました。
今は、核家族で、両親共に市役所や会社で・・・それぞれに忙しく働いています。
つまり昔の言葉で言えば、子供は「鍵っ子」です。
0歳児から見てもらえる保育施設から始まり、8時から5時まで保育所。
そして3歳から7歳まで幼稚園、8時から15時まで小学校、15時から19時まで学童・・・・みたいな
家に居て自主的行動による自我の形成よりも、
誰かに干渉され指示されていることの方が長い時代になりました。
これの意味するところは、自我形成の未発達であるという事です。
自分の好きなことに集中して取り組むことが出来ない。
それが故に半端者が生まれやすい素地が出来上がるのではないだろうかと私は思うのです。
とはいっても、私にはどうしようもないし、私にとっても、もしも子供がニンテンドーDSばかりを
やっていたり、スマホでユーチューブばかりを見て居られるよりかは
誰かに預けた方が良い影響があるのではないだろうかと錯覚してしまいがちになります。
しかしながら、真の幼稚園の先生は言います。
水を出しっぱなしも、子供にとっての実験なのだ・・・と。
全てが実験であり、トライアンドエラーで、砂山を作り壊し、水をかけ固めてみたり石を埋めてみたり
一見大人にとっては無駄・無意味な行為に見える事を繰り返す行為こそが、
子供の発達なのだと。
「危ないからやってはいけない」とか、「ダメでしょ」、「こうしたらいいよ」。
などという親切心が子供の発達を阻害しているのです。
つまり、大人にとっては無意味な行動でも、
無意味・無駄行動こそが思考を広げさせ、発達を促す行為でもあるのです。
つい大人は、「無駄なことは止めなさい」などと口に出してしまうかと思います。
何が無駄で・・・無駄でないかを判断する能力さえも奪う言葉。
虫を殺してはいけません。
花びらをそんなにむしってはいけません
女の子を叩いてはいけません。
そんな教えだと、何故、牛肉は食べててもいいの?
犬は食べちゃダメなの?
ペットと食料の違いって、何が違うの?
という、自分で判断の出来ないジレンマが生まれてきてしまいます。
それを考えさせるための、幼児期の虫を殺したり、ミミズを千切ったり
壁にクレヨンで絵を描いてみたり、人の家に石を投げて窓ガラスを割ってみたり・・・・
家族が謝りに行って見せることも学習の機会なのではないだろうかと思うのです
www
時代が違うのだから、そういうものですよと言われれば致し方ありませんが、
もう少し、ノルウェー王国教育のように天才を育成する教育環境が整わないだろうかと
思ったりしたのでした。
本日も、アラカンおやじの偏見をご覧いただきましてありがとうございました。