始めたばかりのトレーニング。
相変わらず冴えないスロージョギングか?
それとも、引きずり歩行とも捉えられ兼ねない・・・イマイチ何だか分からないような姿は、
道ゆく人々に心配される眼差しを受けて、恥ずかしながらも走るふりをしたTIKTOKバリの動きは、
多分に世間様に要らぬご心配をおかけして本当に申し訳なく思いつつも、
恥を晒してピコタコ・ピコタコと走るフリをする他は、今の所は出来ない体力なのです。
自虐www
それでも5Kmを1時間で帰ってくるから、まだ歩行よりも早いのか遅いのか分かりませんが・・・。
ついそこで悟るのです。
これは
罪を作っているのだろうか
それとも
罰を受けているのだろうか・・・と
JP7FRMのmy Pick
一般的に誰かが広めた解釈で、罪とは
自(はな) + 辛(鋭いナイフ) という会意の文字で、鼻を刀で切り落とす刑。
そして、その意味が、秦の始皇帝時代に 网(法のあゆみ) + 非(悪いこと)
悪事で法の網にかかったことの意味に改定される。
そして、その概念は倫理と道徳という価値観へと舞台を変えて、表される事とも多い。
ドエトエフスキーによる罪と罰、やキリスト教における神の存在を否定した場合の罪と罰など
絶対的意味での倫理概念における罪というものと、
神という存在の否定における相対的概念における罪というもの
があると今まで私は思っていました。
中国における漢字の由来である罪の場合、
法律という誰かが決めたことを破った時に課せられる罰という概念。
にはどちらも含まれていましたが、その概念は支配する人間や時代によって変わることが多い訳です。
そして、その法を破る時に必ず登場するのが理性を惑わす悪魔という存在です。
今回の定義では悪魔が出てこないことが、ポイントの一つでもあります。
罪と罰はキリスト教の悪魔概念が発祥でしたが、新解釈では現代的にGPSを用います。
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誤解釈かもしれません
さて、今回私は、その相対的概念の一つとして、このように解釈するのです。
目で見ていないことが悪いのだと。
物や人を見る狭義の意味での目の器官のことを眼と云うが、
広義の意味では目の漢字の方を使用される。
つまり心の眼差しを表すことが多いが、その眼差しというのは実際には他人は見ることが出来ず、
故に相手の行動や表現でしか察して知ることが出来ない。
何を考えているか分からない、行き先不明というのが、すでに心の遭難であり、
私にとって、心の遭難者こそが罪人であると思ったのです。
つまり、罪を作らないことは、いつも自分の居る位置を把握し、
何処に向かいたいのかをハッキリさせること。
そんなことジョギング中に考えることではありませんが、「もう少し一生懸命に無心で走れよ!」と
自分でも思うところですが、ついつい余計な邪念に蝕まれつつ、身体も大地からの衝撃に蝕まれつつ
自力にて下山ではなくて、認知症まがいの徘徊行動から見事戻ってくることが出来たのでした。
さて、その心の置き処ですが、面白いことに、アラカンを迎えようとか
親の介護に携わろうとしてきた雰囲気を察知し始めた時に、考え始めるのです。
なぜに生きているのかと。
今までは、欲を満たすことで日々精一杯であり、欲というものがある程度満たされたその先に、
自分の存在意義はどこにあるのか?
逆に、「金が欲しい」とか「休みたい」「遊びたい・・・」。
などの短期的褒美に視線を誘導されているうちは、
馬の眼の前にニンジンをぶら下げられている視線ですが。
例えば、癌の余命宣告などされた場合、当座の間は抗がん剤との格闘と余命延長、もしくは
完全寛解を目指す希望視線になると思われますが、
緩和ケアになったとき、何を思えばよいのでしょう。
その時に「満足だったなぁ~」と心から言えるでしょうか?
99%の人は、そう思い込む他はないと思うのです。
いつか来るその時に、心の底から「やり切ったぜー」と言える生き方と考え方をしてきたでしょうか?
そういう目線で罪という漢字を見つめた時、
心の目線が自分の行きたい方に本当に向かっていれば良いのですが、
結局そうではなかった、非だった時こそが、罪なのではないだろうかと思ったのです。
今、自分は何処に居て、何処に向かおうとしているのかが不明だから、
禅の修行などで、自分と向き合わなくてはならないことがあるのだと思うのです。
その答えは、後日のブログにてご報告いたします。楽しみに。持論爆発
そして、罰とは、白川静さんの常用字解を開いてみると、
(詈)ののしると刀(リットウ)を合わせた形であり、神に誓いを立てる言葉、網(网)を被せて、
その誓いを無効にすることを意味して、さらに刀を加えて破棄することを示す。つまり
神にうそを言うことに対する「とがめ・こらしめ」の意味となると書いてあります。
どのような「とがめやこらしめ」なのかは、内容は書いていません。
しかし、私はこう思うのです。
(冠)かんむりへんに目があり、それを支える口で言うという漢字と、リットウヘン。
これを見るに、間違った方向への眼差しは「見るでない!」と
刃物によって口元
に脅しをかけられて
目線を正しいものへと誘導されるさまこそが、罰という漢字の基ではないだろうかと。
では、その正しい方向とは何なのだろうというのが、私の追い求めている部分なのですが、
分からないなりにも一つ言えることは、ただ流されて生きていることは、
罪と罰のレベル以下での人間としての生き方ではなく、家畜レベルの生き方であると思うのです。
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仏教の六道の概念 人間道・鬼畜道・家畜道・・・・など
故に人間として生まれたからならではの、
何らかの信ずる目標へと思いを馳せて生きることこそが、
人間としての存在意義であり
間違っていない生き方であると。
もう少し、キングダム3の最終回、キョウカイが見た暗闇に見た一点の白い光のように
もう少しで、道しるべが見えそうなんですが、いまいちそれがまだ詳しく見えません。
それが見えたならば、ブログにて報告したいと思います。
時代は変わり、人を殺せば悪いことなど百も承知。
そして、神の存在を否定したとしても、罰せられない現代で、
現代のさまざまな意味での飽和状態を生きる迷える人々に訴えかける新しい概念として、
「生きる意思を明確に持つことが重要なのであって、それを見失うことこそが罪である」という
私の頭で考える「新解釈 罪と罰」論はいかがだったでしょうか?
もしかして、ジョギング中や登山中に、新新解釈が生まれたら、発表したいと思います。
先日 安泰寺の外国人など悩める方々が修行に訪れる寺の番組を見ましたが、
まさになぜ人は悩むのか?人生を見つめ続けるのか?
という答えが「今を生きられない、人はどう思うかの未来ばかりを気にする」目線が罪であり、
故に「今という目の前を必死に生きるというありふれたことが出来ないこと」が罰であると
思えたドキュメンタリーだったような気がします。
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どうでもいいことですが、この記事を書いていて、ここ半年キーボードのミスタッチが多過ぎて、
アイデアが頭にあるのに、ミスタッチのおかげでバックスペースキーを押しまくっています。
何とかならないかと思い、G512というメカニカルキーボードを今、ポチってしまいました。
これで、ミスタッチが減ると良いのですが、ブログを趣味?にしている私にとっては、死活問題。
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友達少なっ!承認欲求の塊か?われ!というご声援ありがとうございます
来週は、新キーボードで、ミスタッチも減ってサクサクとアイデアと毒舌&独舌が進むことを期待して、
本日は書き終わりたいと思います。
ご覧いただきましてありがとうございました