視座 | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

いつもは5時に起床するのだが、今日に限って何やら1時に目が覚め、

 

そのまま熊の穴倉に潜む熊のようにじっと傾眠していて、

 

春にならなければ出てみようかな?といった態度をとって

 

二度寝しても良かったであろうに、

 

何故か今日ばかりは天狗でも乗り移ったのではないかと思うほど気分が高揚してしまい、

 

じっとしていられずに起床の運びとなってしまいました。

 

 

通常であれば、凍える室内は寝床を出ようものなら、凍てつく寒さによって皮膚に感じる冷たさよりも

 

もっと迅速に感じるよりも早く、考えるよりも尚早く、心臓がキュウッと縮むほどの感覚を覚えてから、

 

鳥肌のような感じを覚え、

 

次第に皮膚の重層扁平上皮の間から体へと侵入する刺さる冷気を感じ、

 

徐々にその冷気は骨の芯まで侵入してくるかのような感覚を覚えるとともに身震えを覚え始めるのだが、

 

寒冷地に長らく暮らすこの身は、普段着に着替えるまでのプロセスの間に

 

冷気が身体の表面より、より深い場所へと侵入してこようとするのだが、

 

もたもたせずに、迅速なる身体活動により、体温が上昇し、侵入する冷気と戦い始め、

 

そして勢力を増し撃退する方へと働くのだが、やはり圧倒的な冬の寒さには人間の限界を感じて、

 

時間と共に次第に負け行くのであるが、あまり負けないうちにさっさと、

 

複数存在する何かしらの暖房のスイッチまで辿り着くかが毎日の生存確認ならぬ、

 

健康確認の儀式とも云える起床と着替えの私流の儀式であり、

 

都会生活のようにワンルームに暮らすのならば、

.

起床前にエアコンのスイッチを付けておけばという発想もあるかと思うが、

 

なにせ200平方メートルの大空間に暮らす身にとっては、

 

暖房費の観点から、または田舎の隙間風建築の薄い外壁の古民家暮らしでは現実的ではない。

 

エアコンが温まらないのだ。

 

せめて大型ストーブなど5個くらいは無いと生活が困難な地域でもあるのだ。

 

そういう暮らし向きの厳しい所では

 

つまり、起床の時から身体の機能の使い方が都会暮らしとは異なり、

 

体温上昇の身体反応速度が高くないと、またはそういう状態を維持しないと出来ない早起きなのである。

 

老齢化が進むと、ボケたふりをする技の獲得の他に、得意になる技の一つでもある。

 

しかしながら、今日に限って前の日の暖房の余熱が残っているのか、寒くは感じずに起きれたから

 

ある意味ラッキーであったのかもしれない。

 

長らく、私の気性ではなく起床について語ってしまったが、残念とは思わないで欲しい。

 

逆にメリットが多いので助かってもいる。

 

其の1、キャンプなどでシュラフ1枚で熟睡出来て満足な睡眠を得られることが出来るのも、

 

日々の暮らしの中で身体に身に着けている才能であり、

 

其の2、目が覚めて5秒で起きられて、着替えが出来るという点では、

 

寒い中で風邪をひかずに着替えが完了できる訓練を日々行っているが故の賜物でもあり、

 

其の3、それが故に、冬季キャンプや雪中キャンプもおちゃのこさいさいなのである。

 

登山を始めてから、山小屋で寝る事が出来ずに困っていた時に、

 

日頃から練習しないと寝れませんよと助言を受けたことがそもそもの始まりで、

 

それ以来、日々訓練をしているのだ。

 

決してマゾ気質で、自分の身体を痛めつけて喜んでいる訳ではないのだが、

 

端から見ればストイックなM気質に見えてしまうのかもしれない。

 


さて今日の本題だが、視座という事で、普段聴き慣れない視点からものを見てみようと思い

 

ブログに書くことに決めました。

 

一般的な視点と云えば、上から目線、または松本清張に代表される庶民の味方である下から目線。

 

下から目線と云えば夏目漱石の吾輩は猫であるという猫目線。

 

井上靖の吉里吉里に代表される直喩表現目線。

 

私は最近レトリックを我が物にしたいと切望しているので、本日は何かしらのレトリックを使用しながら

 

書いてみたいと挑戦者の気持ちになってワクワクしてPCに向かっている。ウインク

 

そんな事、私に出来るであろうか?まるで赤ちゃんががオリンピックで優勝するようなものではないか?

 

いやいや、宇宙飛行士の野口聡一さんがISSに行くようなレベルの高さに

 

飛ぼうとしているのかもしれない。おすましペガサス ガーン

 

ときに釣りを嗜むことは、ブログを継続してお読みくださっている方はご存じかもしれないが、

 

時折、考えるのである。

 

どうしたら釣れるのであろうかと・・・。??

何度も聞かされてますよね

 

そんな事を考えながら毎度、釣りに挑むのだが、ポンドに着くと早速、

 

ここはひとつ魚になったつもりで、幽体離脱を試みて、心は水の中に潜って考えてみるのだ。

 

 

あーあいつヘタクソだな!。水中から見たらバレバレじゃないか!あれじゃー釣れねーよ。

 

もっと魚にとって涎が出そうな餌を用意しないと、食欲すら出ねーよ。

 

俺の目の前に餌を落とさないとパクっと食ってやらねーぞ。

 

あー下手だなアイツ。トウシロウか?

 

チェ俺にやらせてみろ、俺の方がきっと上手いぞ!

 

などと見ているんじゃないだろうかと、心が一旦分離して水中に出たり入ったり、

 

身体から出し入れ自由になってしまい、

 

もぬけの殻となった自分は、釣りに行くたびに最近は幽体離脱を繰り返しているのです。

 

 

心が離れないで一緒にいる時は、決まって腹が減っている時であり、

 

致し方なく惰性で餌代わりに買ってきた、魚のエサにも成り得る、

 

道すがらにあったコンビニのマーブルパンや魚肉ソーセージ、

 

そしてバナナなどを喰らっている時だけは、それを一緒に食べる魂らしく、

 

「マズイなこれ、食堂とかで食事しようぜ」と訴えかけてくる。ガーン

 

オイオイそれは分かっているけど、今日は釣りに来たんだから、しょうがねーだろ。

 

夕飯は山塩ラーメンか喜多方ラーメンでも食わしてやっから、昼ぐらいは我慢しろよと。

 

 

駆け引きを試み、ブラックの缶コーヒーを飲む頃には随分と会話も少なくなり、

 

眼球の視線と心の視線はお互いに池のポンドを眺めながら・・・

 

「釣れないねー」とくつろぎ始めるのである。爆笑

 

カラスが鳴くまで待っていると、釣れないままに今日という一日が終わってしまう前に、

 

罰ゲームでゴキブリホイホイの粘着テープでもお尻にくっ付いているのではないだろうか思うほどの

 

腰の上げづらさを振り切って立ち上がり、無造作に池の縁に立ちすくむと

 

今度は、心は空へと舞い上がり

 

鳥の俯瞰的目線から、「おいそこじゃ魚いねーよ!」。

 

 

「もっと岬の方へ出て投げないと魚が群れになっているところまでは届いてねーじゃん」。

 

と遠くから聞こえてくる。

 

あっちの方はどうか?そっちの方はどうか?と誘惑の声は激しくなり、ふらふらと身体は

 

あっちへ行ったりこっちへ行ったりとポリシーを失った動きを見せつつ竿を振るのだが、

 

魚は相変わらずかからない。

 

いっぱい居るのにも関わらずである。

 

隣の釣り人は、順調に数を伸ばして釣っている。

 

自分だけは、昼食を共にして以来、空へと浮遊したその心は、巡回を繰り返し

 

どこぞにこいつが釣れる場所はないのかと探し回ってくれてはいるのだが、

 

そもそも考えてみるに、「心ここにあらずでは、そもそもなんじゃね!」と

 

感じ始めた頃には夜のとばりが迫ってくる頃で、多くの客は満足して帰る頃になり、

 

我が心も古巣へと帰ってくるのである。

 

そして、「今日もダメだったね。」と暗黙の相槌をかわし心身が結合し、

 

会計を払いに行く羽目になったのは・・これで何度目になるだろうか?

 

会計の時に、何匹釣った?と管理人に聞かれ、多めに2匹といつも答えると、

 

「まだ魚の気持ちになってねーな。」

 

「もう少し魚が食べたいようなフライを作らなくちゃ~釣れねーよ」とからかわれ、

 

 

よっしやー!!!もっと魚の気持ちになって、美味しそうなフライを作ってやるーと気合を入れるのだが、

 

魚の気持ちになり切れていないから上手に作れないのか?

 

そもそも作る事がヘタクソなのか?

 

釣りがヘタクソなのか?

 

それとも、幽体離脱の仕方が間違っているのか?

 

釣れる人の気持ちを聞いてみたいのだが、何分私のような感性をしている人が居るものなのか?

 

言ってしまったら危ない人扱いにでもなってしまい・・・色々とマズイことになってしまわないかと・・・

 

恐くて聞けない。おそらくこれからもずっと・・・・ドクロ

 

そんな事で、今日の視座は幽体離脱した心目線から考えてみましたという記事に落ち着きました。

 

次回は、違う視座からものを見てみようと思います。パー

 

ご覧いただきましてありがとうございました。お願い