脱皮 | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

 

よく知られる言葉であり、小学生以来忘れ去り、

 

かろうじて人生に一度あるかないかで使用されるであろう・・・

 

人間に於いては、精神的成長を表すであろう単語が脱皮。

 

蝉やカブトムシなどは一度の脱皮によって自分の変態を肌で感じ、

 

そして変態した身体によって土中生活より、光の当たる地上生活への新たなる生活圏を切り開いていく。

 

そんな命の一方通行の時間の流れの中での、自身の大転換を迎えるセレモニーが脱皮で

 

あることは皆が承知の事実だ。しかし同じ昆虫類・爬虫類の中でもヘビはまた違う。

 

何度も脱皮を繰り返し、蛻(もぬけ)ながら成長を進め

 

脱皮の回数や厚さによって違い(老化度合い)を知るだろう。

 

人間もまた皮膚の重層扁平上皮の剥離を常々行いながら成長をしているが、

 

ふけ症やアトピーなどを患わない限り、

 

微小ではあるが・・・・脱皮というそこに気が付く人は少ないかもしれない。

 

目から鱗や爪の垢を煎じてなどという言葉を替えしてでもなければ

 

心のステップアップを意味することは少ないのかもしれないが・・・・

 

そこで気になるのは、どこが成長したのか・・・である!

 

通常脱皮は、肉体的成長を意味する言葉でもあるが、先ほど述べたように、昆虫類などでは

 

生活圏が異なり、生き方を変えなければならなくなる。

 

人間も同様に考えるなら、脱皮の度に肉体の成長と共に精神も新たなる環境に合わせて

 

変態する事が自然であり、人間の皮膚は重層扁平上皮という皮膚の日々の脱皮から、

 

精神が変態するのではと考えてしまうのです。

普通は考えないかな?

その結果として、人は脱皮後にどのような精神発達の階段を登るのか?

 

 

以前にクローズアップした、カンガルーケア日本人の子供と大人の違いの時に

 

親に対して「ありがとう」という感謝の言葉が言えて、何か手伝うか?

 

などと聞けるようになる年齢は平均して35歳であるという統計があり、欧米では16歳だという。

 

つまり日本人の20歳成人では、まだおぼこなのである。

                 ↑

                    分かる?

狭い日本の国土の中で、土着文化を継承していく為には長男を犠牲にし、上げ膳据え膳制度の中で

 

実家に居つかせるために敢えて行う生活精神発達遅延制度であり、

 

それが故に自分でマカナイ等をせずに嫁をもらい同様に仕立て上げていく。

 

その結果、おかしいなと気がついた時には年齢が過ぎており、

 

そして地域の歯車の一つとして機能しており

 

さらには、外れることができないようにもなってしまっている

 

実に巧妙なる制度である。

 

 

生活精神発達遅延制度の田舎土着文化の中で、さらなる脱皮を果たし成長するには・・・・

 

そして、その結果はどのように反映して現れ、分かるのであろうか?

 

 

また、人はどこまで精神の発達ができるのであろうと考えてみた。

 

 

私の小さな脳ミソでは、思いつくのは・・・・一つにキリスト教がある。

 

フィリア、アガペーに代表されるという概念

 

殺されそうになる相手でも愛せよ!

 

つまりは韓国人・中国人などに警戒心を持ったり、好きにはなれなかったり

 

という気持ちも分かるのだが、

 

愛の概念から考えてみれば、それは低俗に属する考え方であり、

 

人種が悪いのでは無く・・・・

 

政治指導者の自国に都合の良い洗脳を受けているだけにすぎない人々であり、

 

国民が悪いのではないと考え、戦争がきっかけの敵対思想さえ省けば、

 

愛せる対象であることを知ることが出来るというのがフィリアという他人愛という概念という訳だ。

 

 

そこの部分に気が付き、日本人と同様に並列に愛を持って接する事が出来る様にと教えているのが、

 

争いの中で生み出された宗教であるのだが、

 

一部の知能指数の低い輩には、そう云った真理の部分が伝わらず、理解できずに、

 

ときに形骸の宗教が導かれた場合に宗教戦争などが勃発してしまう。

 

いわゆるイスラム教ムスリム派や反ムスリム派などのミャンマーで起こり得ているような事態や

 

イランやイラクなどでのイスラム教シーア派とスンナ派問題など、元々は同じ宗教なのにもかかわらず、

 

浅墓な宗教理解者が代表を務めると、俺が絶対正義だから従えとばかりに、相手の足を引っ張り合い

 

自分以外をニセ物や悪の存在であるかのように、二極化の対称にしてまう事こそが、

 

愛の概念を無視して暴走させてしまっている。

 

宗教と云うよりも政治派閥化させてしまっている事こそが、

 

そもそもの宗教概念の理解力の不足の結果だ。

 

本来は他人愛という概念に於いて、仲間を増やしていき、人種が隔たり無く並列に仲間となり、

 

叡智を結集して、運命共同体の問題を乗り越えて、

 

生命界全体で、新しい次世代を切り開いて行くのだと説いているにも関わらずである。

 

 

 

そして次のステップは、

 

人種を超えて、手と手を合わせるようになった時、アガペーという真の愛に満ち溢れる人間社会が

 

到来するのではないだろうか?

 

などとキリスト教などよくも知りもせず語れるものだと自分でも呆れているのですが・・・・、

 

 

そう考えて見る時に幼少期から大人になった証明は

 

感謝する事が出来るという行動であるとお伝えしましたが、

 

 

人間に於ける、次の脱皮は他人愛が出来るかが脱皮の証明となり、

 

最終的には真の愛という概念が実践出来たならば、

 

それが最終脱皮の精神変態の証明になり得るかもしれないと考えるのです。

 

口で言うのは簡単ですが、実践となると話は別です。

 

 

 

 

私などは前回のブログにて冗談まじりにアラフィフだけに五重人格であると証明してしまいましたが、

 

作家 瀬名秀明さんの八月の博物館のストーリーが最後に集結して一つになり得るように

 

 

五重人格が一つに統合して愛の証明ができるようになった時、

 

私が生まれてきた本当の完成形を知り安堵できるのかもしれないのです。

 

そう考えてみた時、まだまだ脱皮が足りず、どこまで精神が発達できたのだろうと思うのです。

 


因みに愛とは、受け取るのではなく、与える事だというように使われることがあります。

 

それは、物品などを与えることなどではなく。

 

どうして肉を食べるのと聞くと・・・好きだから・・というように、

 

好きになる事こそが愛の第一歩であるとも思えるのです。

 

彼女を好きになり、そしてエロースという性愛によって深く知り、

 

子供が出来てからは、ストルゲーという家族愛という気持ちが生まれ・・・、

 

そのように、好きになる対象に広がりを持ち、どんな苦難にも逃げずに向かい乗り越えていきながら、

 

また別の愛を知り、精神の脱皮が計れることが

 

人間の精神変態と成長の証明なのかもしれないな~などと思うのです。

 

つまり、人間の脱皮とは、愛という概念が理解され、

 

 

エロース・ストルゲー・フィリア・アガペーという具合に、好きと云える対象に広がりを持ち、

 

敵意などよりも、好きな女性、子供、隣人、他人などを無条件に好きになれ、

 

無償のボランティア精神が生まれる事が愛の芽生えであり、

 

その為に生きられるという事が精神の変態(脱皮)であり、

 

愛する生き方によって自分の存在を有効利用できる事こそが、

 

脱皮の証明に成り得るのではないだろうかと思った次第なのです。

めんどくさい男でしょうか?

 

つまり、ハウンドドックのフォルテッシモの歌詞を引用するのではないですが

 

「愛が全てさー」という言葉が実は真理だったりして・・・wwww

↑                                    

人間の精神最終変態の言葉かも!?                           

本当に勝手な思想を述べて申し訳ありません。

 

長らくお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。お願い

 

フロムザマウンテン 愛がすべて