愛のその先に | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

すいません。また今日も愛シリーズを書いてしまいました。ドクロ

あーキモイ

最初に注意しておきますが、めんどくさい記事であり、あちこちに話が飛びますことはご容赦くださいブー

 

パー 表現の自由を宣言します (笑)ハッ←何やら意味深?

 

アラフィフ世代はご存じだとは思いますが・・・・家族ゲームという映画はご存知でしょうか?

 

 

積み木崩しや高校教師などの映画も次々に公開され、社会現象を表舞台に引きずり出したテーマであり

 

そして、社会のモラルに対して問題提起をした作品であり、そんな際立った時代でもありましたね。

 

 

右差し42:29~の森田童子の「僕たちの失敗」のテーマソング覚えていますか?左差し

 

モラル、タブー、見えない境界線という人間関係の距離感など、

 

それまでは、隣の家に米を借りに行くことは当たり前で、

 

私などは3件隣の商店に学校帰りに上がり込み、自分の家のようにお菓子を食べたり、

 

テレビを見てくつろいだりしていて、夕飯の時間になると母親はお金を持って迎えに来るという

 

何とも今考えると、バブリーで境界線のない時代でもありました。チーン

 

2000年代に入り、徐々にトランスジェンダーという虚構で極少数だと見られていた人達が

 

リアルであるという事が社会通念上、認知されてきて、

 

結婚問題や就職、トイレや共同浴場の利用という公共設備使用問題に当たった時に、

 

法整備を含め、愛という概念を否応なしに考えざる負えなくなりました。

 

1980年代からは家族愛ストルゲーに関する問題、

 

そして2000年に入り性愛エロースという問題を考え、

 

おそらく2030年を過ぎる頃からは、他人愛フィリアという問題を考える機会が出てくるかも知れません。

 

そしてその先の真の愛アガペーという問題を考える時に初めて人類は、

 

キリスト教によって制定された西暦グレゴリオ暦を終えることができるのかもれません。

 

 

! 愛を語る上で、気をつけなければならない事があります。

 

愛が価値を持ち始めて、あなたにこの位と分量や値段をつけてしまえば、

 

もうそれは愛では無くなると思うのです。

 

見えない愛の形や無償という絶対条件が根底にあり、

 

成分も純粋成分で、しかも普遍でなければ意味を為しません。

 

 

クリスマスという日があり、クリスマスプレゼントという行事がありますが、

 

皆さんはどのように捉えられているでしょうか?

 

と云っても、変わったことをすれば変な人扱いですので、

 

黙って喜ばれるものを贈ると云うのが常識でしょうけれども・・・・

 

宗教学を数か月かじってきて思う事があるのは、

 

この日は、天から地上界に愛を教える人となった神が降臨した事を思い出し、そして共に喜ぶという日であって

 

神の子が地上界で風邪を引かないようにと、衣服や生活用品を整えたりするために、

 

皆が集まって贈り物をした事が発端となり、

 

子供は天からの神の授かりものであるから、生活に困らないように来年の成長する分の身支度を行う

 

いわゆる衣替えの日という意味なのではないだろうか?と最近私は思い始めました。

 

新約聖書のキリスト教以前の、旧約聖書ユダヤ教では、

 

相手の望む事や物を惜しまず捧げる事が義務付けというか慣習になっています。

 

 

日本は明治時代まではユダヤ教文化が浸透しており、西暦に変わったタイミングでキリスト教が普及してきました。

 

爺さん婆さんが生きてきた時代は、相手の喜ぶ事なら考えずにプレゼントしたのはユダヤ教の名残かも知れません。

 

同時に信用の絶対化、つまり銀行業などの仕事はユダヤ教の代表的な考えに基づいており、

 

約束は約束、一日でも遅れたら信用を失います

 

しかし約束をやぶっても後で返してくれれば良いという相対的信用と概念。

 

つまりツケという概念は他人を信じる、他人愛を提唱するキリスト教から発生しているのでは

 

ないだろうかと思うのです。

 

そして、話は飛躍しますが、

 

もし家族愛という概念がなければ、極端例ですが・・・共食いをしても良いということになります。

              

                        オス熊は子熊を食い殺して、メスと交尾し、また子供を作ろうとします。

                     オス熊には家族愛が見られません。性欲だけは見られます。

 

そして、家族が生き残るために、家族愛があり、

 

さらに性愛という異性を愛して子孫を増やすといってしまえば表現が軽くなってしまいますが、

 

愛という概念は人間という種族が生き残るための方法の一つとしてあるのではないでしょうか?

 

では、その中で

 

トランスジェンダーという同性を愛することは、どういう風に考えれば良いのでしょうか?

 

今流行りの多様性という言葉だけでは説明不足のような気がします。

 

そもそも昔から知られている事ではありますが、それが起こるのは

 

遺伝情報による違いなのか?はたまた胎児の脳の発達段階に於いて環境ホルモンの影響により

 

起こり得たものなのか?

 

または成長期の接触する人間関係から変化してきたものなのか、それとも性癖なのか?

 

いずれにしても全世界的な規模で存在し、日に日に増加している事項なので、

 

トイレ問題などは、男女に分けずに、全て個室で、どこに入っても良いというようにしていき、

 

温泉も水着着用で、洗い場は個室というように整備が必要かもしれません。

 

 

性愛を語るとき、

 

二人で人生の先行きについて希望を語り合い、夢が膨らみ、喜び合い、

 

嬉しさや悲しさなどの感情を共有するといった時間の使い方が一般的かと思います。

 

現実には結婚の時が、愛情に満ち溢れており、まるでフルムーンのようであり、結婚後は欠けていくだけだ

 

という現実的な話をされる方もおりますが・・・チーン

 

協力して人生のその先に安心という希望を抱く事や、自分の死後に遺伝子という子孫を残す事も

 

希望の一つとなり得るし、ハチ社会に見られるように国家という共同概念を支えていくという喜び

 

(つまり働き税金を納め、その税金で社会を豊かにするという概念)もある。

 

何より、自分の自由が愛によって追い風となる事の方が多くの人が望む事でもあろう。

 

つまり、楽しいと思える社会がそこになければ、多様性は成り立たないという前提でもあるのだが。

 

ハイ話がねじ曲がって来た所ですが、もやもや

 

愛って何なんでしょうか?ガーン

 

つまりは、そこに見返りを求めない優しい思いとでも言えば良いのでしょうか?

 

子供や両親に対する気遣い = 家族愛

 

隣人・他人が困らないようにする気遣い = 他人愛

 

他人以上の自分以下で、最も心が近しい相手への気遣い = 性愛

 

有機物質・無機物質問わず、気遣う事?(私には分からない分野) = 真の愛

 

素直にこのように、相手へ伝導すれば良いのですが、受け手の精神が曲がっていると、

 

そもそもの思いに思惑が隠れていると、それは間違って伝わってしまい。

 

家族ゲームや高校教師のように複雑に変貌し問題化してしまいます

 

子供に対して愛しているよと伝えますが、それが子供にとってはうざったいと思えてしまうのは、

 

純粋ではないからではないでしょうか?

 

1980年代に流行った家族ゲームなどは、高度成長期に共働きで

 

子供は出来合いの物や家政婦さんによって養われ、いざ親が子供を思っていると云っても、

 

純粋に愛情が伝導しなかったことを描いています。

 

そして高校教師では、教師であるはずの大人が生徒に手を出すという、大人になり切れない大人を描いて

 

幼少期の愛情の不足が、大人になって偏愛という性癖を現わしている事を描いています。

 

最近では、親子ならずともキモイという言葉が聞かれますが、

 

異性に対して、キモイと思われてしまうのも、その異質な成分がプンプンと臭うが為に言われてしまう事であり、

 

文章を明確化して表現することを省いて、言葉を短縮した表現の結果。

 

感情もまた、一つ一つの段階を経ずに、突然膨れた思いを相手に見透かされるが故にキモイと見られて

 

しまう訳であり、一つ一つキャッチボールのように伝え理解されるのであれば、そうはならないと思うのですチョキ

 

また、韓国の慰安婦問題も同様に、日本人に「そうでしたごめんなさい」と言って欲しいだけだったのに、

 

そこの間に誰かの思惑が絡み、お金で要求してくる存在が居ることに日本人は違和感を覚えるし

 

まさに、利害・利権関係によって社会構造が成り立っている今、

 

そこに愛はないのか!?と叫びたくなるのです。

 

などと、話は膨らんでいく訳ですけれども・・・もやもや

 

 

現在、イエスキリストの提唱する愛シリーズの家族愛と性愛については、

 

日本人の多くは認知している所ではありますが、理解というと難しいです。くるくる

 
トランスジェンダーに見られるように、多くの人が理解できるのならば、性愛も理解が進んだという事になるでしょう。
 
そして、韓国や中国などの人種間・国家間の枠を超えた理解が出来て、戦争が世界から無くなった時に初めて
 
世界の人々が他人愛を認知から⇒理解する方向へと進んだことになるかと思います。グッ
 
そして、最後の真の愛というのは、ジェームスレッドフィールドやアンドルーワイルさんなどの
世界観で表わすように、地球から科学構造式的に作られた薬が少なくなり、
 
自然に生かされ、共生している生命体の一つとしての人類という概念に回帰して、
 
新たなる概念の世界が想像されるような気がします。というか、そうなって欲しいものだと思います。
 
CUTION ! 退化して、太古の生活のようにという意味ではありません。
 
人類の知識と叡智は、さらに発展していく上でという事を意味しています。
 
先日、サイエンスアイという番組の中で、東北薬科大学の教授が藍染めの藍蓼の話の中で
 
コロナウィルスにも癌にも効果があるとされる植物の研究をされているとの事でした。
 
つまり答えは、いつも自然の中にあるのです。
 
そう云う意味で自然を軽視せず、自然の中に答えが隠されているという視点で
 
ものを見て考える事が出来るようなアリストテレスの自然哲学に回帰する訳ではありませんが、ガーン
 
その愛の成分が含まれない植物的アリストテレス自然哲学に、今度は動物的躍動と愛という概念を練り込んだ
 
自然哲学の上に社会が成り立てば、人類はエコ社会になり、
 
さらには、実に人間的な社会になる気がすると思うのです。
                       ↑                               
                       完全に私の希望という妄想                                     ↑
              そして、これ以上詳しくは話すまい
 
結局のところトランスジェンダーについて考えてみたんですけど、
 
分からなかったゲッソリという結果でした。
 
そして、書き終わった今、
 
我に返ってみて目・・・アラフィフが考える事なのでしょうか?ゲラゲラwww滝汗
 
お笑いください。こんな奴です。お願い
 
ハイ!今日は妄想が激しすぎて、いいねボタンを押してくださる方の数を減らしてしまう結果と
 
なりかねません記事でしたが、最後までよくぞご覧いただきまして、誠にありがとうございました。お願い