空を作る | 独学の道Ⅲ

独学の道Ⅲ

自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

 

また今回も、名言がひしめき合う教誨師の書籍の中から、

 

 

 

一部分を抜粋して記事を書いていきたいと思います。

 

 

「思えば人生はゴタゴタとしている。ことに、大都市ごとき、

 

家はぎっしりと詰まっているし、人は群がっていて押し合い

 

へし合いしている。

 

電車の中はどうだ。バスの中はどうだ。

 

朝夕のラッシュアワーの時には、車内では、體あたりをやり、

 

足元は踏みあっている。多くの人々はいろいろの用事に調いまくられて、

 

喘ぎあえぎ、その日その日を送り迎えている。

 

是等の人々が、もし、こんな人生の中で。

 

ふと、山に登ったり、川に遊び、野原に寝ころび、

 

海岸に座る時間を持つと、とても良い気持ちを満喫するだろう。

 

ここに空間の味わいが出てくる。

 

刑務所は、教育の場であって、報復的な懲罰の場所ではない事は

 

もちろんである。

 

中略

 

彼らは相當な複雑な心境で、一日一日を迎えているようで、

 

その心は相當の雑念妄想がゴタゴタしていると思う。

 

 

この複雑な心境は社会人にとっては、山や川などの空閑によって

 

呼吸を抜くことも出来るが、ことに死刑囚にとっては、もう到底恵まれない

 

事であろう。すると彼らには「空」の世界を与えるべきであろう。

 

・・・・いやしくも教誨をしようとする者が、彼らの前に、

 

偉大な空間を展開しえなかったならば、

 

到底教誨の目的は達せられないのだと思う」

 

 

前回のブログでチャンネルの切り替えの記事を書きましたが、

 

そのあとで、この書籍を読み進めていくと、この空であるという時間や空間的思想というものが、

 

どれだけ貴重なものなのかが分かる。おねがい

 

 

敢えて時間的に拘束されて、人の監督下で動いてさえいれば、日銭が手に入るという安心感で、

 

心の空虚感を埋めようと努力してしまう道へと、ついぞ歩みたくなるものだが、

 

やはり、その与えられた空の時間を、心の豊かさへと結び付ける。

 

つまり、被害妄想などや卑しくなる気持ちを浄化するために使うのが本来の空の時間の使い方

 

であって、多くの日本人は空の時間は悪とばかりに考えてしまいがちになってしまう。

 

ふと、私もそちらの方へ行きかけていた事に、ようやく今気が付いた。

 

そういう意味では、私の心にブレーカースイッチが付いているようで、時に働く機能はありがたい。合格

 

 

ここで云う所の空とは、切羽詰まった極限の状態での、改めて感じる思いも含むのであって、

 

例えば夫婦は元々別人であるのにもかかわらず、

 

何かのご縁で同じ屋根の下に暮らす人間同士であり、

 

また子供たちや両親などのそれぞれの人生が同じ屋根の下という場所という空間を同じにして、

 

度重なる接点を持つことも同時に意味する。

 

つまり、学校に行けば、友人たちとの感情や同じ寒さ暑さという感情も共有するのであって、

 

そういう意味では、現在ブログをお読みくださっている皆様とも、このブログを通じて、

 

人生の一瞬が手の上に手を重ね合わせているかのようでもあるし、

 

 

いくつもの いいねボタングッの数を見て、共に空間を共有しているという事も表わします。

 

 

何とも人生の奇遇というのだろうか、まるで、中島みゆきの糸の歌詞ではないが、

 

互いの人生という糸に、ブログを通して接触しているかのように思う空間という意味でも、

 

人間の心での関りを感じ、

 

まるで長ベンチに座り合うかのような関係を思い浮かべると、

 

何とも心が温かくなる思いでもあります。OK

 

 

[私の作業PCから見える窓の煌めき画像↓]意味はないただきれいだったから・・・

 

 

そして、その書籍の文章の続きではありますが、

 

 

「普通の人間でもそうであるが、余りに忙しいため、右往左往して、

 

心身に空間を持っていないと、本当の判断を見失ってしまうものである。

 

そして人生に錯覚を起こす。

 

例えて云うと汽車の驀進中、真下を見ていると、

 

下の丸いバラス(砕石)が、数十本の直線と化現しているようなもの

 

である。

 

よって忙しい都会人ほど、とき折には、公園に行ってボンヤリとした

 

空間を持つように努力しなければならない。」

 

 

確かに、私の知人も消費者金融で休みなく働いていて、

 

相当な高級をもらっていたのだが、その高級で、タクシーに乗ろうと思い乗り場で待っていたところ、

 

走ってきたタクシーの前に飛び出してぶつかったら・・・

 

怪我をして1か月くらい休みを貰えるかなーはてなマークとか、

 

 

新幹線乗り場で立っていると、

 

飛び降りてぶつかったら仕事休んでいいよって上司に言われるかなーはてなマーク

 

と毎日考えていたそうである。

 

 

この話を聞いた時、他人事ではなく、同じ立場であったら同様だろう。笑い泣き

 

 

つまりは給料が安くても健全な判断が出来るという毎日を送れる喜びは、

 

実のところは至上の喜びなのかもしれないと今日のこの時、思うのです。

 

 

続いて、

 

 

「幼い子が、他所で泣かされて帰ってくると、

 

お母さんはその事を尋ねる。すると子供は始終を告げる。

 

そして告げると泣き止んで寝込んでしまう。

 

これは子供の腹が空になったからなのである。

 

昔の人も「思ったことを言わないのは、腹の張る手術なり」と

 

言っているのは面白い事だと思う」

 

と書いてあるが、

 

 

最近小学生の2割に便秘があるというヤフーの記事を見て、目

 

 

 

何やら糞詰まりの便秘の他にも腹が張るお子さんも含まれるのではないだろうかという気がしてきた。

 

 

これらの糞詰まり以外の腹張りを放置するならば、

 

 

いずれ教誨が必要な事態にも成り兼ねないかもしれないという予感を感じながら、

 

 

更に書籍を読み進んでいる。

 

 

そして、教誨の極意は、相手の話をよく聞く事、仏教の教えをひたすら説くのではなく、

 

 

相手の心の訴えを聞くことだと言っている。

 

 

聞くにも聴く・訊くなどがあるのだが、聴くという事を筆者は指し、仏教では聞くことを指すことが多い。

 

 

 

「欲望とは、人間が前に進むエンジンにもなれば、

 

人生を狂わす魔物にもなる。

 

 

欲望を厳しく閉じ込めて妄想の世界に追いやれば、

 

それは、魔物に姿を変え際限なく膨らんでいく。

 

 

人の命を奪う事件の多くは、

 

そんな頭の中の魔物が暴走して始まることが少なくない。」

 

 

先日も、欲望というポルシェのエンジンを積んだ私の心も、

 

一歩間違えば、魔物が住む姿へと変貌し兼ねなかったことを思うと、アセアセ

 

この書籍を現在手にとって読んでいるというのは、ある意味のご縁なのかもしれない。雷

 

そして、これ以上は言葉に出来ないシナリオが書いてあり、ガーン

 

思い出したくもない・・・・心がグチャグチャにかき混ぜられるようなセンシティブな内容なので、

 

引用は差し控えるし、しばらくの間、教誨師の書籍の内容とは絶交しようと思います。ドクロ

 

 

年末も残り少ないというのに、このような内容の本を手に取り、心を引き締められ、

 

 

まるで、心のミソギ儀式を済ませたような感覚でもあります。

 

もう少しで、来年という区切りを迎える前に、心のミソギをを終えるという事は、

 

何かを啓示しているのかと考えてみると、なんだか嬉しいような、

 

晴れやかなような気分にもさせてくれる。むらさき音符←妄想の魔物が巣くっているのかも?

 

という事で、空閑を作りましょって云う話でした。

 

本日もご覧いただきましてありがとうございました。お願い