本日も「哲学用語図鑑」を見つめています。
こんな老眼にも負担をかけ、更には精神的にもかき混ぜて、不健康になるような事をせずに、
是非ともかわいい女の子を目の前にして、見つめていたいものだという
イデアという幻想は・・・・いざ本当に現象化してしまうと・・・・
人一倍大きいであろうエスという欲望を、わずかに社会生活に於いて学習した自我によって
何とか折り合いをつけ均衡化し、更には頑張って身に着けた超自我Aの倫理観と
これまた頑張って身に着けた超自我Bの道徳観なのだが、付け焼刃で身に着けてしまったせいなのか?
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両方ともその観念は未だ薄くてまったく頼りにならず、まるでアンジャッシュ渡辺健さんの如く、
金を払い・・・トイレで×××ではありませんが・・・
すぐに社会的問題を起こしてしまい兼ねませんので、
やはり、ここは・・・・哲学用語図鑑に向かって見つめ合うという・・・何とも孤高な時間の使い方のほうが
私には向いているかもしれないのではないだろうか?
と改めて思いながら、図鑑を読み進めるのです。
哲学者プラトンは、感覚器官から入ってきた情報を
そのまま何も考えず信じてしまってはいけないと言います。
彼は、物事のイデアを探求することが何よりも大切だと考えたのです。
イデアとは、三角形みたいな形を見ると、それは△だと信じ込み、
また山っぽい形を山にしか見えないと信じ、自分にとっての好みの女性を美女と呼び、
正義とは・・・美とは・・・・こう云ったものであると勝手に思い込み、
「人間らしく生きるべき」と云われれば、「その通り」と思ってしまう
妄信的考え方をイデアであると唱えました。
そのイデアは目には見えないものであり、その目に見えないものを見える形にしたものが、
現実世界の美術や人間が美しいと思う形の造形物に過ぎないと考えた。
陶器の器に入った水を、人間は美しいと思うが、犬にとっては形がどうであれ水が飲めれば
器はどれでも良いのであって・・・そういう考え方がイデアの典型例です。
つまり、アイデアという言葉を聞けば理解できるように、
頭の中の空想がイデアで、その他人が考えたイデアをそっくりそのまま信じても良いものかと
疑問を持ち、同時に警鐘を鳴らし、認知して、自分で是非を考える人間社会に導きたかったのです。
イデアに無関心な人々の事を、
洞窟で手を縛られて照明の照らす影の像を見せられている囚人
に例えて、洞窟の比喩と言います。
囚人は何者かによって影を見せられているのにも関わらず、
あたかも本物の影であるかのように妄信していて
疑わないさまの事を云います。
切り絵のオオカミを松明で照らすと、あたかも後ろにオオカミが居て、襲われてしまうのではないか
という不安を与え、更には囚人にとってはそれが、どう考えてもオオカミにしか見えなくなる訳です。
そう云った影絵の世界を見ている私たちを・・・・
誰かが、囚人を洞窟の外の世界に連れ出して、外の世界を見せて、
実はオオカミが居ないのだと云う事を教えてあげなければならないのではと考えた訳です。
この時、感覚だけでものを見ている人に、理性を使ってイデアを見るよう促す、
つまり囚人を外に出す行為という概念が大切だと考えたのです。
今で云う所の「本質を見る目を養う」と言ったら分かりやすいでしょうか?
現在、膝が痛い人に、
ヒアルロン酸・コンドロイチン・変性2型コラーゲンが効くとCMでやっていますが・・・・
まさにこの事であり、食べて膝に効く訳は絶対にありません。
そういう考えだったら、牛肉を食ったら牛になったり、豚肉を食べれば豚になるのと同じ考えです。
膝軟骨は、関節包に包まれた関節液から栄養を補給するので、注射をしてもダメ、食べてもダメです。
湿布を貼って腰痛が治るはずもありません。
たまたま治った理由を湿布のお陰と錯覚しているのです。
しかしながら、日本国民の99.9%の方々は効くと信じて購入しています。
完全に、医薬品メーカーを敵に回す表現をしてしまいました。今後が恐いですが・・・
マクドナルドのダンボール入りパンの時もそうでしたが、美味しい肉だと思って食べていたものが、
実はダンボールによって嵩増しされていて驚いた方も多いはず。私もです。
ダイソーの干し芋も、買ってみたらビックリ、赤色色素で着色されていて、芋は本来黄色なはずなのに
何故か合成着色料と甘味料の汁に漬けて、乾燥させたというのがバレバレな物でショックでしたが、
購入した2袋を全部食べてしまった自分も色んな意味でショックでした・・・・トホホ。
今後は、見た目は美味しそうに見えても、様々なトリックで格安で提供される食品を口にしていけば
当然、身体に異変が起こるのも想像される訳であり、
どうやって健康という、命に係わる尊い分野を是正するのか?
逆を云えば、医者だけは儲かる訳ですが・・・またも医師を敵に回す表現してしまいました。
自民党の最大の資金源は医師会ですので、仕方がないのでしょうか?
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食育ではありませんが、食と健康について、考え直さなければいけないのではないかと思うのです。
世界は人口増加の一途を辿り、飢えに苦しむ人も多くなっていくと考えられます。
そういう意味では、ただ腹を満たすだけのエサとしての食品もありでしょう。
ゲノム食品や、植物で作った人工肉という概念も必要と思います。
しかし、日本人はただでさえ少ない優秀なマイノリティー民族ですから、可能ならば
命を繋ぎ、それによって精神と身体を強くして永られるという卑弥呼流の食事儀式としての食べ方や
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卑弥呼は、真鯛と桃が大好きで、タンパク質とビタミンのお陰で長生きしたと考えられています
さらには、身体に優しい食品の選定をしても良いのではないだろうかと、
ダイソー食品を食べ終わってから思ったのです。
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私も農家ですので、農薬の使用量、癌の元になると考えられている硝酸塩窒素含有量を
測定せずに流通するシステムを何とかせねば、癌は益々人工的に作られていくと考えています。
農薬を積極的に販売推奨する農協が悪いとは言いませんが、
利益を出すためには虫が付かないように農薬を散布し色が濃い程、市場では高く売れるから、
化成肥料をふんだんに撒いてしまい、作物の色を濃くするというのは、致し方ありません。
問題は消費者が、文句を言って無農薬とまでは言いませんが、
減農薬、有機肥料栽培などの食品を選らんでもらえれば、
農家はそちらに価値を見い出して、生産方式や市場価値を変えざるをえなくなります。
自主努力の農家も増えましたが、それでも市場主義から云えば、後者は、食べて安全だが
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田んぼに農薬を撒くと、その流れに住む魚の背骨が曲がるという事実が広がり、今では
自分の子供の背骨が曲がらないようにと有機栽培米作り食べさせる農家が増えています。
色が薄く、見た目も悪いので、引き取り価格は安くなってしまい。
高く買ってもらうためには前者方式にならざるをえません。
健康な体があれば、健康な判断。
つまり洞窟から自らが這い出せる人が増えていくのでないだろうかと考えるのです。
行きつきたい・・・・TODOのつまりは、
結果的に自殺を考えたりすることもなく、また病気で苦しむ人も少なくなっていくのではないだろうか?
と勝手に思うのです。
話は変わりますが、青森の五所川原市にあるタラソテラピー施設のプールに行った時の事です。
市民の方曰く、この施設を立てるのに4億円かかったんだけども・・・・
お陰で、市民の医療費が毎年1億円も安くなって,4年で元が取れて助かっていると・・・
つまり、運動する習慣を身に着けたり、食事も健康的なものを提供する施設のお陰で、
市民一人一人が、運動と食事によって健康になれ、そして介護予防にもなるんだという概念を
植え付けたというのは、大変成功例だったのだなぁと感じました。
そんなニコニコした老人が多く利用する施設は、やはり雰囲気が明るく軽やかで
こちらも元気をもらえるようで、完全復活したような錯覚に陥った記憶が蘇りました。
電気自動車の件もそうですが
電気自動車を作る方が、実はガソリン車を作るよりも3割二酸化炭素を多く排出してしまうという事で、
二酸化炭素を減らす取り組みが、逆に増やしてしまうという事実に目を背けて、
誰かの都合の良いように操作されている洞窟の影絵を操っている誰かから、
早く救出と救済をしなければ、更に洞窟の影絵の操者は増えていくばかりで、
もしかしてそういう社会になっちゃったの?って最近思うんですよね。
正直者は馬鹿を見る世界が、今まさに現実のウェイトを益々占有しているように思います。
すいません脱線して健康問題から社会問題へ意識転換をしてしまいました。
つまり、安さだけを追い求めていくというエサとしての食事概念もアリなんですけれども
健康になるための食材を、農家や畑などを選んで購入し、命を育む儀式としての食事によって
健康という身体を作るという考えと・・・システムもこれからは必要なのかなと思うのでした。
などと、今日も哲学者プラトンさんに感化されて書いてしまいました。
ご覧いただきましてありがとうございました