コロナ心理をフロイトに尋ねる | 独学の道Ⅲ

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自分で自分を変えることは、到底無理なことかもしれないが、それに望む気持ちの自力論は高尚で偉大である。
仮にその結果が甚だ振るわなかったとしてもだ。
By幸田露伴(努力論より)

本日も誤解を招く発言をしてしまうことを御承知いただきたいと思います。

 

あくまでも、制限という枠を飛び越えて思考してみようとする試みであるが故に、

 

常識的発言ではない可能性が含まれます。

 

と前置きをしてから始めますが・・・

 

コロナ感染者は汚い!

 

近寄るな!

 

移るからあっち行ってくれ!

 

等の心理攻撃が表面化し、それに対して何とか意識の変化を出来ないものだろうかと

 

自分勝手に考えております。

 

何故?被害者を加害者扱いしてしまうのか?

 

山形県のコロナ新規感染者情報を見ながら・・・第○○例 ○○市の47歳男性・・

 

○○従業員などの詳しい職業歴などを年の初めは用いていましたが・・・

 

クラスター対策として、感染者との濃厚接触者を自主申告してもらうための情報開示であることは

 

十重承知しているのですが、その情報を悪用してというか?

 

コロナ自警団と称する偽善者達は、一対多の構図で、ここぞと情報を拡散し、

 

精神的に追いやっていく事が徐々に増えていき、

 

田舎での深刻な精神的畏縮を生む問題となっています。

 

東京などの隣人との関係性が薄い地域に住んでいる方には、分からない問題ですが、

 

田舎のような半径20Km内の誰々さんといえば・・・・あーあの人ね!

 

って分かるくらいの密接な人間関係の中で過ごしていると、

 

この度のコロナによる情報開示は、まったく深刻です。

 

では、他県での情報開示はどのようにしているのか?

 

たまたま青森県を見てみました。

 

山形県以上に慎重に情報を閉鎖して開示しています。

 

人権問題に考慮しており、感染したとしても、山形県のような、さらし者にはなりそうもありません。

 

山形県では、吉村知事が「いじめや差別などくれぐれも無いように、お願いいたします」

 

何度もホームページに書いていますが、

 

情報の開示の仕方がストレート過ぎて

 

見た人はどうしても攻撃してしまいたくなってしまいます。

 

 

そのような攻撃性がどうやって生まれてしまうのか?

 

コロナ感染をした、ある意味の被害者をどうやって救済していくのかを

 

心理学のフロイトを引っ張り出して考えてみました。

 

 

 

フロイトは、全ての人間にはエス(欲望)と呼ばれる無意識層があり、

 

自分にとって気持ちの良いものを求め、嫌なものは避けたいという気持ちです。

 

しかし、人間は成長の過程で、社会に触れ、善意や倫理などの外圧と欲望であるエスとの

 

調整をしていく術を身に着けます。

 

この時のエスと戦う心理構造を自我と呼び、音楽・絵画・舞踊などの芸術は

 

自我の力でエスを変形させた結果であると唱えました。

 

また教育などで形成される良心を超自我と呼び、こちらも周辺に迷惑を掛けないように

 

自我を変形させた形であるとしました。

 

変形のレベルは人によって差があり、

 

過剰になると他者に対して攻撃的になったり(外向性)、

 

または場合によっては精神を患う事(内向性)もあると考えました。

 

どっちの図が正しいのかは分かりませんが

 

左の図は、元々はエスの世界の一部を自我と超自我で占めていくというもので、

 

右の図はエスはあるけれど、精神の成長と共に自我を学習し超自我を知るという図です。

 

 

 

さてここで問題なのは、攻撃性。

 

コロナ感染者を、自警団と称して攻撃してしまうのは、超自我が変形した表れであり、

 

コロナという未知なるウィルスを恐れる余りの自己防衛のエネルギーが、暴発して外的に向き

 

他者へも自分と同等の倫理観を押し付けるが如く、意識が向いてしまう。

 

田舎で倫理観、正義感が強く育てられて、教育を受けた人ほど、ましてや指導する側の立場であれば

 

尚の事で・・・陥りやすい反応とでも云うのでしょうか?

 

そのようなフロイト的思考で考えてみると、

 

攻撃性の強さは、イコール超自我の変形が外向きに現れたと結果であるという事になる。

 

非常に理解しやすい構造で、こんな事を考えたフロイトさんって本当に凄い人なんだなー

 

って事も分かった。

 

倫理観と云えば、カッコよく聞こえて、人間には必要なものである事は分かるのだけれども、

 

人として守り行うべき道、善悪・正邪の判断に於いて普遍的な基準となるものと云う、

こうあるべき!こうでなければならないという概念

 

良い事ばかりを教え込んでの倫理観に照らし合わせてみると、という概念は、

 

この度のコロナ自警団を生んでしまい易いという基盤にも成り兼ねず、

 

道徳という、人のふみ行うべき道、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための

 

規範の総体と定義されているものが弱まっている結果でもあると思うのです。

↑                                     

親切・思いやり・見守りなどの事                               

 

 

すみませんお願い 分かりずらい表現で、つまり倫理とは普遍的基準であり、

 

道徳とはその時の状況によっての善悪の判断であり、人々が生きて行くために必要な

 

行動における潤滑的・可変的・相対的判断の善悪であるという事を言いたいのです。

 

いや?これも分かりずらいかな?チーン

 

 

 

倫理観と道徳観の凌ぎ合いに於いて、道徳観が勝ればコロナいじめは撲滅できる!!

 

と言いたいのです。

 

現在の山形県・・・のみならず地方では倫理観が勝っている状況なので

 

是非とも道徳観を啓発して、倫理観とのバランスを取って欲しいものだと結論が付きました。

 

 

そして、私が考えた新たなるフロイトの概念図

 

超自我A(普遍的良心)超自我B(相対的良心)という分類にしてみました。

 

相対的とか語っていると、アインシュタインの相対性理論を思い起こしますよね?

 

そんなん思うか!アホって聞こえましたけど・・・www

 

という事で、こんな図は・・・どーでもいいんですけどアセアセ笑い泣き

 

と私の勝手な分析にお付き合いいただきまして、本日も誠にありがとうございます。お願い