久しぶりに邦画を見ました!
軽い気持ちで図書館から借りてきた
『おおかみこどもの雨と雪』。
とぉ~っても深かったですね。
学ぶこと、悟った事たくさんありました。
一回目は日本語で観たのですが、
子供達と英語吹き替えで再び観た時に
一回目の時に見逃していた色んなメッセージが
ポンポン出てきました。
(いい!って思ったものは一回きりで終わらせたらいけないですね!)
お母さんの花の優しさと強さは
もちろん最初からインパクトがあって、
「見習わなきゃ!」と思いましたが、
(おかげで今日の私はいつもよりおしとやかで、優しい母です。笑)
雪と雨がそれぞれ自分の進む道を選択するのを
ずっと優しく見守る花に「母の模範生」的なものを見ました。
そうですよね。私達、親としての責任は
子供達が選んだ道を見守り、サポートすることなんですよね。
もちろん、子供が選んだからといって何事も賛成できる訳ではないし、
間違った選択をすることもあるでしょう。
でも、そんな時、アジア文化によくある「勘当」をするのではなく、
賛成はできないものの、「この家にいつでも帰って来ていいよ」
という態度を親は持たなければいけないと私は思います。
そもそも、勘当するというのは「親の自分勝手」の表現だと
私は思います。自分の思うようにならないから勘当する。
本当に子供のことを思っているのなら、心から愛しているのなら、
勘当することはもっと子供を傷つけるということに気づく筈です。
そう思いませんか?
聖書の「ルカによる福音書」にこんなストーリーが記されています。
「ある人に、ふたりのむすこがあった。
ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」
自分がまだ生きているのに「財産をくれ!」と言われて、
放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たした息子を
この父親のように受け入れられることは
容易なことではないと思います。
怒りや情けなさ、こんな息子を持って恥ずかしい
という感情の方が自然と出てきますよね。
ですが、この父親のように息子を無条件に愛するのが
私たち親に与えられた課題なのではないでしょうか?
ただし、「無条件に愛する事」イコール「全部のことに賛成すること」
とは違うと思います。
逆に、「賛成できない」イコール「愛せない」でもないと思います。
先日のブログ(こちら)でも触れましたが、
「愛」というのは気持ちではなく、「愛する決心」です。
子供がどんな選択をしようと
親として、無条件に愛することができます。
もちろん簡単なことではありません。
でも、無条件に愛することを心がけて、努力をする親が多くなれば、
「愛されている」と感じる子供も増えるでしょう。
自分は愛されている、尊重されている。
息子達がそう信じて疑わない子育てをしたいですね。
そして、世界中にそう感じる子供が一人でも増えることを願って。
軽い気持ちで図書館から借りてきた
『おおかみこどもの雨と雪』。
とぉ~っても深かったですね。
学ぶこと、悟った事たくさんありました。
一回目は日本語で観たのですが、
子供達と英語吹き替えで再び観た時に
一回目の時に見逃していた色んなメッセージが
ポンポン出てきました。
(いい!って思ったものは一回きりで終わらせたらいけないですね!)
お母さんの花の優しさと強さは
もちろん最初からインパクトがあって、
「見習わなきゃ!」と思いましたが、
(おかげで今日の私はいつもよりおしとやかで、優しい母です。笑)
雪と雨がそれぞれ自分の進む道を選択するのを
ずっと優しく見守る花に「母の模範生」的なものを見ました。
そうですよね。私達、親としての責任は
子供達が選んだ道を見守り、サポートすることなんですよね。
もちろん、子供が選んだからといって何事も賛成できる訳ではないし、
間違った選択をすることもあるでしょう。
でも、そんな時、アジア文化によくある「勘当」をするのではなく、
賛成はできないものの、「この家にいつでも帰って来ていいよ」
という態度を親は持たなければいけないと私は思います。
そもそも、勘当するというのは「親の自分勝手」の表現だと
私は思います。自分の思うようにならないから勘当する。
本当に子供のことを思っているのなら、心から愛しているのなら、
勘当することはもっと子供を傷つけるということに気づく筈です。
そう思いませんか?
聖書の「ルカによる福音書」にこんなストーリーが記されています。
「ある人に、ふたりのむすこがあった。
ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。
それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。
何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。
そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。
彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。
そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。
立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。
もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。
そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。
むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。
しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。
また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。
このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」
(ルカによる福音書第15章11節~24節)
自分がまだ生きているのに「財産をくれ!」と言われて、
放蕩に身を持ち崩して財産を使い果たした息子を
この父親のように受け入れられることは
容易なことではないと思います。
怒りや情けなさ、こんな息子を持って恥ずかしい
という感情の方が自然と出てきますよね。
ですが、この父親のように息子を無条件に愛するのが
私たち親に与えられた課題なのではないでしょうか?
ただし、「無条件に愛する事」イコール「全部のことに賛成すること」
とは違うと思います。
逆に、「賛成できない」イコール「愛せない」でもないと思います。
先日のブログ(こちら)でも触れましたが、
「愛」というのは気持ちではなく、「愛する決心」です。
子供がどんな選択をしようと
親として、無条件に愛することができます。
もちろん簡単なことではありません。
でも、無条件に愛することを心がけて、努力をする親が多くなれば、
「愛されている」と感じる子供も増えるでしょう。
自分は愛されている、尊重されている。
息子達がそう信じて疑わない子育てをしたいですね。
そして、世界中にそう感じる子供が一人でも増えることを願って。