分離の想念の思考と感情って本当にいい加減な解説なんだな~~という気づきが起こるたびに笑ってしまいますが・・・
どれほど存在しない問題で振り回されてきたか?と思うと笑えます。
存在しない問題や意味のない感情に翻弄されて日々エネルギーを使って驚くほど緊張して生きてきたのだな~~と感じますね。
存在しない恐れからの制限から自由になって子供のようにこの瞬間を楽しみたいですね。
質問を頂いたので一緒に考えてみたいです。質問くださって一緒に考えるチャンスをくださってありがとうございます。
沢山質問が入っているので、何回かに分けて一緒に考えてみたいです。
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すべての起こることは、最初から決まっていたということでしょうか。
映画のように、用意されたストーリーの中にいて、そのストーリーのすべてを体験したくて、本当は喜んで味わっている。
けれど、マインドは、良し悪しをジャッジして、起こる出来事に日々一喜一憂している、ということでしょうか。
ジャッジやマインドの抵抗をやめて、受け容れる生き方にシフトしたいです。ヽ(;▽;)ノ♡
その抵抗は、意図的に手放していくことは可能でしょうか。(委ねる!と決めたり、思考の転換をしたり、本やブログを読んだりすること等で。。)
それとも、それも 自然に 起こってくることなのでしょうか。
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最初に
「すべての起こることは、最初から決まっていたということでしょうか。
映画のように、用意されたストーリーの中にいて、そのストーリーのすべてを体験したくて、本当は喜んで味わっている。
けれど、マインドは、良し悪しをジャッジして、起こる出来事に日々一喜一憂している、ということでしょうか。」
という質問から一緒に見て見たいです。
分離を信じているとき自分という確固たる存在がいると信じてその分離の想念の眼鏡をかけて世界を見ているようなんです。
分離の色眼鏡をかけて見ているために、全てが分離の「良し悪し」で認識が起こるようです。
そしてその「良し悪し」の認識も記憶を使って起こすのでそれぞれの眼鏡が違うためにそれぞれが違う世界を見ているようです。
また相手と自分が分離しているように感じるし、世界と自分も分離をしているように感じます。
出来事や関係性の中で全てが偶然に起こているように感じたり、相手との相違を感じたりします。
もともと関係性といのも分離がないので存在しないことが分かってゆきますが、最初は関係性という形で見てゆくことが起こると思います。
奇跡のコースを学び始めたころ、目の前のカップをカップと見ていることが恐れによって起こるといわれたとき、
意味不明でしたが、分離の錯覚が消えてゆくとき、この意味が気づきを通して分かり始めます。
全て分離という想念によって構築された仮想世界をリアルであると体験しているとき無意識に恐れを持ち続けてしまうようです。![]()
このために無意識に私たちは緊張していることに気づかないでいます。
また現実世界というのは驚くほどリアルに体験が起こりますが、実際は脳の知覚によってその体験が認識されているために、実際はあるようでない世界。
分離の視点で自分だけの世界を本当の世界のように体験が起こっているようです。
私たちは真にお互いを見ることは不可能のようです。
自分(マインドの想念)が見たいように世界を見て、聞きたいように聞いているようです。
このために分離の勘違いが消えてゆくとき、記憶の中の体験がリアルではなかったことに気づきが起こったりします。
内側に全てがあり、同時に内側も外側もなかったことに気づきが起こります。
情報だけが漂っている世界だったことに気づきを通して体験が起こるとき驚きます。
この気づきを受け取るとき、この物理次元の世界の体験の全て驚くほど奇跡的に起こっていて、毎瞬がかけがえのない体験であり、こうして体験させてもらえる奇跡に感動します。
マインドを通して聞くと、恐れを感じたり抵抗を感じたりしますが、分離の想念が自然に剥がれてゆく中で本質からの気づきを通して気づくとき
体験できるという神秘に驚き、この自分と信じてきた存在そのものに宇宙を見ます。![]()
「映画のようにストーリーが決まっているか?」
というとどうなのでしょうか?少し考えてみたいです。
ストーリーの見方は二つあって、分離の想念を通してみるストーリー、気づきの視点で見るストーリー。
もともと世界に分離はなく、そこに境界線はないのですが、分離していて世界から切り離されていると信じているとき、
存在しない視点が生まれ、存在しない体験が起こってしまうようです。
(これを幻想・仮想空間などと呼ぶのだと思います。)
分離の視点で感じる悲しみや苦しみなどそれらを嫌わないで受け入れて体験するとき、そこにある分離を超えた愛に触れると思います。
この愛が本来存在しているものであり、分離の視点でそれを悲しみとか苦しみとラベルを貼っていただけだったことに気づきます。
分離の視点というのは、全てを細かく自分中心に認識が起こるために、大きな全体性の文脈の中で完璧に起こっている事実が見えなくなってしまうようです。
ですから全てが偶然に起こっているように認識が起こり、同時に存在しない分離の視点での世界がリアルに見えるので、不公平にみえたり、問題が起こっているように感じるようです。
「自己中」というのはよくないことのように言われますが、それは存在しない苦しみを体験してしまい、宇宙の恩寵とか奇跡のような体験がここにあるのにそれが全く見えなくなってしまうようです。
このために毎日の中の恩寵や奇跡に気づけずに、未来の何かをもとめたり、幸せを探したり、何かになろうと頑張ったり、願掛けをしたり・・・・
でも実際は、そうして求めているとき隠れてしまっていただけだったのに気づくとき、何かになろうとすること、変わろうとすることが違ったのだと分かり始めます。
またこの自己中というのも、真に自分を中心に見てゆくなら良いのですが、多くの場合分離の良し悪しという概念を使っての自己中なので苦しみと感じることが起こるだけであり、
これらの分離の概念が消えてゆくとき、もともと自己中心的になれる存在が居なかったことに気付きます。
ストーリーが決まっているのか?と言えばYesでありNoであり、その時の想念による認識によって変わってくると思います。
分離の想念を使っているときはストーリーが決まっていて自分というのはその中の役者のようなものである感覚ですが
実際は分離が錯覚なのでこの世界全てが気づきによって見られている映画のようなもの、
でもその気づきも無から起こっているために、実際は未知であり、分離の想念で世界を見る因果(カルマや輪廻や時空間)を超えるとき、全てが未知であり永遠であり、無であり、空であることに気付きがおこります。
このために決まっているようで決まっていないという表現になってしまうように思います。
分離を信じているときは時空間が存在し輪廻や因果があるように見えて決まっているし、
気づきの視点では全てが未知なのだという感じでしょうか?
このために「分からない」ことが分かるという感じでしょうか?
長くなってしまったので抵抗について明日一緒に考えてみたいですありがとうございます。
ここで書かせてもらっている内容を信じる必要は全くないです。
こうした内容はマインドは理解できません。
頭(マインド)で理解する必要もなく、思考や感情という表層ではない部分から必要な時に「あ!」というような気づきが起こると思います。
ハートはあなたにとって大切なことをいつも知っていますからね^^
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