「思考は現実化する」という心の法則。と言ってたが
それ完全なカルトだよね
誰も世界平和を願ってないの?唱えてる人の地域や身近な人達の幸せを願ってないの?
願い方が悪いから不幸が起こるって言っちゃうの?
理解をしてもらえるように考えてないよね
俺は昔からこういった疑問の答えを求めてるが俺の「なんで?」に答えがまだ見つからない。
俺の求め方が変だからか?
~~~~
いただいたコメントを一緒に考えてみたいと思います。
コメントくださってありがとうございます。
最初にこの「オカルト」という言葉をWikipediaで調べてみました。
ラテン語: occulere の過去分詞 occulta(隠されたもの)を語源とする。目で見たり、触れて感じたりすることのできないことを意味する。そのような知識の探求とそれによって得られた知識体系は「オカルティズム」と呼ばれている。ただし、何をもって「オカルト」とするのかについては、時代や論者の立場等により見解が異なる。
この語は、ヨーロッパにおいては、論敵にレッテルを貼るために使われてきた歴史を持つ。特に、正統派を自認している側から、そうではない側をこの名称で呼ぶことが行われた。ただし、その正統派が誰なのかという点は時代とともに変遷する。![]()
くださった質問の答えにとても当てはまっているな~~と感じました。
私たちは自分の信じている考えを使って出来事を認識することしかできないので、
実際は化学とか目に見える現実と信じている揺るぎない事実に感じることも
実際は全部オカルトに当てはまるな~~と思いましたね。
”正統派を自認している側が論敵にレッテルを貼るために使われてきた。
ただしその正統派が誰なのか?という点は時代ととともに変遷する。”
というのがまさにその通りだな~~と言う感じですよね?
正統派を自認している側ということでしたが、私たちは自分の考えが正しいと疑わないので、
それ以外の視点からの認識が盲点になってしまい、理解できない見えないということが起こるんですよね。
このために誰もが自分の方が正統派、自分の方が正しいと感じるようです。
これは誰かが間違っているとかではなく、そのようにしか認識が起こらないためなのですよね。
そこきづくことで、自分の信じていることを疑ってみるということができたとき、違う視点が見え始めるのですよね。
多くの場合、私たちは「正しさ」「正義」「善」を大切にしますよね。
これはこの世界が相対での認識で成り立っている世界なので、正しさの争いになってしまい、平和を願うからこそ起こってしまうという不幸であるように感じます。
どちらも同じように平和を願い、自分の信じていることが良い、その方が幸せになれると信じているからなのですよね?
相手のことを思っているから起こることでもあります。
でもこれらのただしさや善の争いは、よ~~くみてみると、
間違ってはいけない、悪はよくない、という恐れがベースになっているようです。
正義と愛が同じであるように信じていたりもしますからね。
”ただしその正統派が誰なのか?という点は時代ととともに変遷する。”
といわれるように正しさは時代によって変化しています。
それだけではなく、日常の中でも役割によって全く認識が違ってしまうこともあって、
「何が正しいか?」という問いには永遠に答えを見いだせないのではないか?
もしくは、答えは人の数、その瞬間の数だけあると言ってもいいかもしれませんね。
”誰も世界平和を願ってないの?唱えてる人の地域や身近な人達の幸せを願ってないの?
願い方が悪いから不幸が起こるって言っちゃうの?”
ということでしたが、
誰もが世界平和を願っていると思います。
誰もが身近な人達の幸せを願っていると思います。
ただ平和を願いながら、誰もが自論の正しさの争いになってしまっていっているのになかなか気づけないですからね。
私たちって身近な人の幸せを願いながら、自分の中の幸せの定義「ただしさ」に当てはめることでその人も自分も幸せになると勘違いしていたりします。
でも、人それぞれその立場や状況やタイミングだけでもその人にとっての幸せと感じ方は変化し続けます。
またその人がとても不幸に見える状況であったとしても、実際はその出来事によって大切な気づきや愛を受け取る過程かもしれないんですよね。
”願い方が悪いから不幸が起こるっていっちゃうの?”
ということでしたが、不幸というは、自分の視点、信じている概念や信念によって違ってきますからね。
自分が信じている幸せの定義(正しさ)通りになっていないとき、人は上手くいっていないとか、傷ついたり、絶望的になったり、不幸だと感じたりしますからね。
「思考が現実化する」という心の法則であるというのは、オカルトでだということでしたが、
私たちは自分の信じていることをリアルだと認識し体験するから、思考が現実化するような体験となるのですよね?
本当は不幸なことが起こっていなくても、自分の信じている考え通りになっていないとき、不幸だと体験をしますからね。
ですから、自分の思考が現実化しているような体験になるのですよね?
そして、これは自分の日常の中で実際に調べてみることで、この意味が分かり始めます。
ですから、オカルトだとか、信じるし・信じない、ではなくて、実際に自分で調べてみるといいかもしれないです。
例えば、何かが起こったとき「やっぱり~~」とか「そうなると思ってた」などという感じることがあると思います。
このとき人は自分の思考のように現実が起こっていると認識したります。
でも実際は、自分の信念によってそのように見えているということに気づいていないことがとても多いんです。
自分の頭の中のストーリーにいることに気づけないんです。
たとえば職場に苦手な人がいたりすると、
私はやっぱり運がわるいと感じたり、
苦手ない人がどこにでも必ずいるのよね。
などと感じたりします。
これらを思考が現実化するという表現をしたりします。
実際は何が起こっているか?というと
苦手という認識が、
自分の価値観(ただしさや定義)と相手の価値観が違うとき、
嫌われていると認識が起こったり、
否定されているという認識が起こったり
しているだけだということがわかるとき
自分の思考で勝手にそうであると信じて運がわるいとか不幸であると体験していたことが分かります。
日常の中で何か不幸と感じた時に、
「自分の判断は絶対に正しいといえるだろうか?」
「ほかの見方はないだろうか?」
そんな風に自分の考えに疑問を持ってみることで、全く違う視点が見えてくるかもしれません。
目覚めるとは
物事はこうなっているんだというストーリー
概念、思い込み、レッテルから目覚めることだといわれています。
自分が見ている現実だと信じているのは、実際は自分の概念や思い込みやレッテルによって認識した本当はそこにないストーリー(思考は現実化するようにみえる)であると気づいたとき
全く違う体験が起こり始めます。
自分の思考のストーリーが消えてゆくと、全く違う世界が広がるという神秘的と感じるような体験をします。
実際はオカルトでもなく、驚くほど直接的に体験できるものです。
自分の内側の「ただしさの争い」が終わったとき、自分の見ている世界に平和が訪れるかもしれません。
押して下さりありがとうございます。励みになります![]()
↓ ↓ ↓


