ご縁をいただけた事心から感謝しています。
今日はカナダはイースターサンデー(復活祭)です。
イースター(復活祭)というのは、キリスト教の大切な祝日。
キリストが復活したことに対するお祝いのようです。
この世界ってこれらの物語の多くが比喩的なメッセージやシンボルになっているようです。
それらの内容の解釈が個人でそのとき持っている想念を通して解釈するためにそれぞれ違うメッセージとして受け取ります。
このイースターエッグツリーのように、それぞれが違う解釈を受け取るのですよね。
それらは何が正しいということはなく、それぞれがそれぞれの夢物語をこの世界で見ている壮大な夢の一つ。
夢のワンシーンという感じだと最近感じます。
神とか、キリストという言葉、宗教という言葉に抵抗があるきと、このキリストの意味が自分の持っている想念で解釈を長い間してきました。
キリストが復活したという物語に示されているメッセージに全く気付かないでいました。
というか、自分の解釈によって、メッセージが全く見えなくなっていたことに気づきはじめました。
この世界に対する勘違いが少しずつ消えてゆくなか、このキリストというもの、神というものは、実際は全てのエネルギーを指していることに気づきはじめます。
最近は化学でも全ては同じエネルギーでできていることを証明していますよね?
だからと言って、それらの証明が直接一つであることを感じられる思い出すために役立つか?
というと、そうではないようにも感じます。
頭で思考の理解では、疑いが消えないですからね。
よく耳にする、「全ては一つ」とか「愛されている」「無条件の愛に包まれている」などと言われてきたスピリチュアルの美しい言葉に対しても同じように思います。
どんなにその美しい言葉を聞いても、どんなに頭で分かったように、腑に落ちたように感じても、真にきづきが起こるのとは少し違っているように思います。
これは頭の理解を超えた、日常の中で、実際に自分で体験を通して概念では説明のつかない何かに触れてゆくことが大切なのだと感じています。
全ては一つということは、自分と相手は同じであることを受け入れてゆくことであり、どんな相手も赦してゆくことでもありますよね。
そして、それは自分の想念を映し出している相手を赦すことになるために、結局自分を赦すことにつながっていたことを毎回思い出させてもらえる体験になります。
このとき、傷つけられたと感じた相手や、問題と感じた出来事に対して感謝があふれます。
そして概念を超えて一つであることを思い出すという体験をします。
私たちは分離していると錯覚しているために、何かが不足していると信じていて、その不足感から恐れや罪悪感を生みだしてしまうようです。
そしてその恐れや罪悪感によって、無意識に自分を護るために攻撃的になったり、無意識に自分を責めていたりしているようです。
でもそれらがなぜ起こっているか真に見つめることなく、不安や恐れを取り除こうと、何かを求めたり、認められるように何かに頑張ったり、愛されるように努力しているようです。
相手や出来事を通して何をしているのかを真に見つめてゆく中で、愛や奇跡を受け取りながら分離の勘違いが少しづつ消えてゆきます。
日常の生活の中で、沢山の勘違いにきづいてゆくことで、残ったものが本当に求めていたものであることが分かり始めます。
平凡な毎日にの中に、平凡な当たり前のものの中に、非凡な神秘、全てや無限を見始めた時、今ここに全てがあること、全てが一つであることへの確信が内側から起こります。
求め続けて、探し求めていたものそのものであったことに気づくとき、真の安らぎと無条件の愛を体験します。
求めているものは、実際は全ての人がそれ自身であり、それ以外は最初からありえなかったことが分かることがキリストの復活だったことに気づきます。
青い鳥のお話しも、オズの魔法使いも、自分の求めているものを探しに外に旅に出ますが、最後に帰ってくるのはHomeですよね。
最初から真に欲しかったもの自身であることが分かります。
本来私たちは全てを持っているといわれます。
この意味が長い間、全く分からないでいました。
人はスピリットであるとか、個人ではないといわれても、それを理解することはできないですよね?
でも日常の中で、丁寧に出来事を通して自分を許してゆく中で、それは自然に分かってゆくようになります。
愛とはあるがままを許して、あるがままであることを許すことであり、
無条件の愛に包まれていたことを思い出すのは、どんな自分も自分で赦してゆくことだったんですよね。
そして、気づくと全てが一つであったことを思い出してゆきます。
本当は分離が錯覚であり、ただの想念なので、実際は当然のことなのですが、分離を信じて恐れを感じているとき、
恐れの想念を通して解釈してしていて、あるがままの完全性や全体性が全く見えてこないのですよね。
リアリティーが全く分からなくなってしまうのですよね。
豊かさを求め、幸せになろうと私は何かを求め続けてきました。
それらをブロックしている観念を手離す作業をたくさんしてきました。
でもそれは今この完全な瞬間から逃れようとしていることに気づかないでいました。
本当はここはいつも完全であり、このどこかに向かおうという考えによって、リアリティーが全く見えてきませんでした。
求めていたことによって求めていたものそのものであることに気づけないでいました。
何か他の場所、他の時(過去や未来)に探し求めているものがあるように自我が信じさせることで、
「ここ」が驚くほどの完全な神秘で奇跡の連続である事実を覆い隠してしまいます。
お金の不安や健康の不安、将来の不安、過去の後悔という思考のストーリーの中でさまよい続け、リアリティーを隠しています。
今幸せを感じよう、そうすると豊かさや幸せを引き寄せられる。
そのように信じていたことがあります。
この瞬間に感謝しようと努力をしたこともあります。
それもまた少し違った角度で、この瞬間の完全さを隠しているものでした。
実際は、本当にあるがまま、ここが完全であり、それ以外は空想のストーリーでしかなく、今ここで無限の今が現れ続けています。
自我は因果関係を私たちに信じさせ、過去の体験やあり方が今や未来に影響を与えると信じさせています。
このために、プラス思考や今幸せや感謝をすること、徳を積むことで未来のどこかで幸せを受け取れると感じます。
でも、実際は、毎瞬が全く新しい創造の海であり、因果関係というのが幻想だったと気づいたとき、驚くほどの解放が起こります。
過去の思い込みを使って目の前の人や、出来事、ものを判断する代わりに、全く新しい毎瞬、全く新しい自分、全く新しい他者というリアリティーを見ることが可能になってゆきます。
探求をつづけてきた長い道のりを今振り返って思うことは、苦しみや恐れや問題と感じることの中にいつも愛や奇跡を体験することになっていたということです。
上手くいっているとき、幸せと感じるときは人はつながりを感じられるけれど、相対の分離という幻想世界では、必ず苦しみや問題を作り出しますからね。
そしてそれは思考の中のストーリーでしかなく、分離していると信じているからそのように感じるのであり、実際はその錯覚が苦しみを生んでいて、その錯覚が消えた時、もともとあった愛を体験します。
分離の錯覚が消えた時、自分も含めて全てが求めていたそのものであることが分かります。
あるがままの完全性を思い出せますように。


Happy Easter 


愛と感謝をこめて
ゆう
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