職場は変わりませんが、仕事が変わりました。

まったく新しい分野で、しかも架橋に入った企画が目白押し!

そっち方面のスキルのない自分で大丈夫なのか

って不安で押しつぶされそうになりますが

まずは自分ができることからやるしかない!

って感じです。

はて1年後にはどうなっていることやら???


今日、久々に谷中の書道博物館へ行った。

目的は中村不折の「龍眠帖」を見るためである。

素晴しかった。

一見、稚拙に見えるがその実、書に対する修行の積み重ねが端々に現れ、なにより心をとらえてならないものが感じられる。

でも、以前見たときは良さが分からなかったのに、なぜ今になって。

これも自分の進化を示すものなのか。

それともただの好みの変化なのか。

隣にある顔眞卿の臨書も華やかさの対極になる重厚さに圧倒されそうになった。

ここしばらく自分の書にうんざりしていた。嫌気がさしていた。

つならない字。

おまえからは伝わってくるものが、感じるも
仗剣堂散録-書道博物館中庭の桜
のが何もない。

でも、今日見た作品で少しだけおぼろげな何かをつかみかけたように思える。

あとは自分しだい、と言うことか。


中庭に出ると桜が満開。

桜と私だけ。

ときおり桜の花びらが舞う。

そのわずかなひとときをひとり楽しんだ。




先週の土曜日、書道教室に師匠の中国人の張先生が来られた。

当日夜の忘年会に参加するためである。

張先生は1年以上おなじ書体だけを研究・稽古している。

金文で千字文を作品としたいとのこと。

ただ、字はなかなかだが、

筆遣いは自分の好みではなく

むしろ「よくあれで」と感じざるを得ないものがある。

その日見せていただいた最近の成果は

悪くはないが、1年前を越えたか、と言うにはきついものがあった。

そんな張先生が私の斉白石の臨書を見ながらこう言われた。


基本は王義之。

他は「気」をつかむためのもの。

「気」とは「リズム」や「全体的な流れ」を言う。

一字一字真似をするのではなく

あるまとまりをそのまま掴む。

そのまま真似するのは、ムダとは言わないが

そこから掴むには時間がかかる。

臨書の勉強方法の本質ではない。


とても考えされられた。

これからの修行に大きな変化のきっかけとなりそうだ。