愉快を生きる!JJ抹茶です。



今日の1曲は「命の別名」中島みゆき、です。

お盆ですし、少し趣を変えて思うところを。

♪ 命に付く名前を 心 と呼ぶ

みゆきさんは、こう歌っています。

命の別名=心、と歌っているわけです。

健脳塾で師が「自分の持ち物」ということを書いています。

「持っているもの」ということを、あたしなりに観じてきました。

書き出しもやってみました。

モノから始まって、属性(肩書き、人間関係)などなど。

それから能力のようなものにも及びます。

でもなんか違う気がしますね。

あたしは何も持ってないのではないか?

というところに行き着きました。

そこで究極の「持っているもの」を観じました。

それが生命、命でした。

絶対的に持っている。しかし、「与えること」も「受け取ること」もできないし
従って「交換」することも、「取引」することもできない。まさに究極です。

ところが、みゆきさんが歌った心はどうでしょうか?

そう考えると「命の別名」からは、命は別のものに「変換」して
「与えること」も「受け取ること」もできるのではないかと思うのです。

【愛】なんかまさにそうです。


ところでお盆だから・・・と最初に書きました。

命をお盆のタイミングらしく観てみます。

「享年〇〇歳」なんて言いますね。

この『享年』とは「天から享けた年数」という意味です。

『享ける』は「ありがたく受け取る、いただく」という意味です。

従って「天から(与えられたものを)ありがたく受け取った年数」となります。


生命は永遠であると思います。

でも、あたしたちの命には限りがあります。

「たしかなこと」とは、「いつか必ず死ぬこと」以外にはない!と友人が喝破してくれました。
そのとおりだと思います。

ここから考えると、「命の別名」は「(限られた)時間」であると思います。

そしてその命が「在る」座標軸を「中今」と言います。
古神道の表現で「永遠の時間の座標における中心点としての今」という意味です。

生命の観点では
過去は既に死んでいるのと同じ
未来はまだ生まれていないのと同じ
になると思います。
生きているのは「中今」だけです。

過去も未来も、死んだ人と生まれていない人と同様、「思い煩ってもどうにもならない」ものです。
どうにかなるのは「今」だけです。
過去への評価はどうにでも変えることはできますが、だから過去が変化するものでもありません。
変化するのは「今」です。
未来に影響を与えることは可能ですが、未来は保証された座標ではありません。
それに影響を与えたところで、それを受け取るときは「今」でしかありません。


「命の別名」は「時間」であり、それは「中今」である。

とお盆に思ったところです。


お盆に「たしかなこと」として「中今」を語れることに感謝と祝福を贈ります。

愉快を生きる!JJ抹茶です。



今日は1曲ではなく、映画「燃えよドラゴン」の1シーンを。
日本語バージョンの方が動画の画質が良かったので。英語の方がいいんですけどね。(;^_^A
最近、動画で無料公開され始めました。やっぱりかっこいいなぁ。

さて、このシーンの「考えるな!感じるんだ!!」は有名なセリフです。

私が健脳塾でテキストにしている「神との対話」シリーズもそうですが、
それ以前から「ラムサ」は教えの根幹にありました。

これらのキーワードは【思考】です。

「神との対話」ではシンプルに法則の1番目として

思考は創造につながる

としています。

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では「思考の河」のくだりで

その意識の流れからやってくる思考を使って、私達は自分のあらゆる瞬間を創造する。

としています。

創造の源は思考であると。


この思考の河で書かれていることが、ヒントになるかなと。

思考はどのようにして、実感され、知られるようになるのか?
それは感情を通してのみである。
いかなる思考であれ、感じられなければ、それは「知っている」状態にはならない。

だから、何かを知りたければ、まず感じる事。
そうすれば、私達はいつでも思考の河にいけるのだから、そこから同じような知識を
探ればいい。
そこで、感じた事は絶対なのだ。

望みは、身体の中で、より完全に、より強烈に感じるほど、その望みは完全な形で満たされる。
そして、それを絶対的な確信で知っていればいるほど、現実化も早くなる。


いくら考えても、知識を積み重ねても
それが【使える】ものでなければ、役立たずのガラクタの塊に過ぎません。
往々にしてあたしたちは、そんなガラクタの山に過ぎないものに満足しています。

使えれば、道具になり、武器にもなります。
それは【(ほんとうに)知っていること】であると。
「知っている」状態になるには感じること・・・まさに「考えるな!感じるんだ!!」です。

体験の中で感じたこと
「神との会話」で言う「体験的に知る」とはこのことです。

>絶対的な確信で知っていれば知っているほど・・・
「たしかなこと」と言い換えることができるかな。

「神との対話」をきっかけに始めたブログでしたが、
核心は原点ともいうべきラムサにあったかと、しみじみ思うことでした。

>絶対的確信
芥子粒ほどの信念があれば・・・ってやつですね。
絶対という言葉を使ってますが、これは主観です。

長年の良き友人である空仙さんがこっちで書いてくれましたが、
あたしも思います。「たしかなこと」なんてない、ってことが「たしかなこと」だと。

それでも「たしかなこと」を求め、書こうとした動機、原点は「ラムサ」にあったと知りました。
読みづらくて、理解しがたかった「ラムサ」をでしたが・・・
それをちゃんと読んで、核心をつかまえていたあたしもまた存在したんですね。

「たしかなこと」は本人(あたし)にとってそうであるという主観。
それは、泡沫(うたかた)のようなもの。
つまり、決して「たしかなもの」なんかじゃない。

それでもそれが絶対的確信であれば、現実を動かす。
そのことを体験的に知っています。小さな体験ですけど。

もっとでっかくやりたい!
それがあたしの欲求であり、そのためにこんなことをやってます。

「考えるな!感じるんだ!!」

ともすれば逆へ走りがちな自分へ、たしかな道標として贈りましょう。

「たしかなこと」を語れることに感謝と祝福を贈ります。
愉快を生きる!JJ抹茶です。

今日の1曲は「糸」(中島みゆき) Bank Bandのカヴァーも有名です。
この歌は4月に急逝した同級生の好きな歌でした。
今日の日記は大好きだった彼女に捧げます。

なぜ めぐり逢うのかを
私たちは 何も知らない
いつ めぐり逢うのかを
私たちは 何も知らない


で始まります。

「神との対話」では【出会い】について以下のように述べています。

いや、ちがう。
それでは出会いの目的が損なわれてしまう。
現在という栄光あるときに、経験を創り出すこと、
したがって自らを創り出すことが魂の目的なのだから。
だから、どんな人生を経験するのか、前もって選びはしない。


出会いの目的は魂の目的を果たすこと、にあるようです。
そして出会いとは選択の結果であるとも言えるようです。

魂が何を選んでも、あなたがたには限りない可能性が開けている。
あなたがたが限られたものと呼ぶ肉体に宿る魂にはどんなことも可能だ。
ただあなたがたには、魂の課題が理解できないし、魂の意図もわからない。


「糸」の歌詞の
「なぜ」「いつ」めぐり逢うのか知らない
というところと似ています。
「なぜ」は出会いの目的で知ることが出来ますが。

これまでも述べてきたように「神との対話」で言う

つきつめて言えば、自分が何であるかを知るためには、
自分ではないものと対決しなければならない。


という一節には
「魂の目的」=自分が何であるかを知ること
「相対性の目的」=「魂の目的」のために自分ではないものがあること
「出会いの目的」=「魂の目的」のために経験を創造すること
ということが凝縮されているように思います。

そして【出会い】について「神との対話」では

だから、あらゆる人と条件を祝福し、感謝しなさい。
そうすることで、神の創造物の完璧さを認め、神への信頼を示しなさい。
神の世界ではいきあたりばったりに起こることは何もないし、偶然もない。
世界は、あなたがたが運命と呼ぶ気まぐれな選択に翻弄されてはいないのだ。


と示すべき態度と行為をはっきりと「祝福、感謝」と述べています。


「糸」の歌詞の最後の部分

縦の糸はあなた 横の糸はわたし
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます


偶然はなく、全ては必然
ならば、全ての出会いは必然(の選択結果)
すなわち、逢うべき糸
だから全ての出会いは仕合わせ(幸せ)
祝福、感謝!

このようにまとめることができると思います。

このように難しく考えるより、感じたいから「糸」を聴き

「あなたに出逢えて良かった、幸せです」

という感情を味わいます。

この歌が好きで得意だった友人へ
そして、愛する妻や家族へ

すべての出会いに。
幸せと感じるから、感謝と祝福。

それは「たしかなこと」です。

幸せに「たしかなこと」を語れることに、感謝と祝福を贈ります。