幼稚園児のぼくが

精神的に影響を受けた出来事で

今でも鮮明に覚えていることがあります。

 

 

友だちのKくんの家にいたときのことです。

 

Kくんの家は郵便局をやっていて

その2階が自宅でした。

 

だからKくんの家に遊びに行くと、

まず郵便局の中に入って行って

「こんにちは」って挨拶をします。

 

すると、窓口よりもひとつ奥に座っている

郵便局長のKくんのお父さんが

「やあ、いしいくん。2階にどーぞ」

と、応えてくれます。

 

お辞儀をしてからぼくは一旦外に出て

脇にある鉄格子の門扉を開けて家の2階へと上がって行きます。

 

 

ある日のこと

Kくんとその2階で遊んでいたとき

ぼくはふと窓から外を見下ろしました。

 

ちょうどKくんのお父さんが

自転車でどこかから帰ってきたところを見つけました。

 

「あ、Kくんのおとうさんだ」

ぼくがそう云うと、Kくんも窓から下をのぞきました。

郵便局が開いている時間にお父さんが外出するなんて、

ちょっと珍しいことだったようです。

自転車の荷台には何かの箱が縛り付けてありました。

 

再びぼくらは遊びに熱中しました。

と、しばらくして

Kくんのお兄さんがお父さんと一緒に部屋に入ってきたのです。

 

「プレゼントをもらったんだ! 」

 

お兄さんは横長の大きな箱を抱えていました。

さきほどお父さんの自転車の荷台にあったものです。

窓から見たときよりもその箱はずいぶんと大きく見えました。

 

お兄さんはもどかしそうに包装紙を解きます。

Kくんとぼくは、それをじっと見ていました。

 

ぼくらは手を出してはいけない。

そんな雰囲気でした。

 

包装紙の中から出てきたのは、鉄道模型のセットでした。

 

 

うわぁー!!

 

みんなの歓声が上がりました。

 

「父さん、ありがとう」

お兄さんは本当にうれしそうでした。

 

「みんなで仲良く遊びなさい。

父さんは郵便局に戻らなくちゃいけないからね」

Kくんのお父さんは仕事を抜け出して

鉄道模型を買いに行っていたのです。

 

ぼくはお兄さんに聞きました。

 

「プレゼントもらうの、知らなかったの?」

 

Kくんのお兄さんは模型の線路を繋げながら、

「知らない、知らない」

と、こちらを見ずに答えました。

 

少し早い誕生日のサプライズプレゼントだったのです。

 

 

おねがい

 

サプライズって、すごくいいなぁ。

 

 

まだ世の中のことをまるで知らない

幼稚園児のぼくは

それでも幼稚園児なりの高揚感で

小さな心を震わせていました。

 

本当に感激してしまったんです。

 

 

こんなすごいオモチャが突然もらえるなんて・・・

 

どんだけ嬉しいんだろう・・・

 

 

その喜びを想像してみても

ぼくの心のキャパを超えていて

ぼくは軽いパニック状態になりました。

 

 

メチャクチャに違いない・・・。


部外者のぼくですが

勝手に自分のことに置き換えて

その嬉しさをメチャクチャすぎるくらい感じてしまい

お兄さんと自分の区別もつかなくなり

半狂乱となってしまったのです。


「わーっ! 」と雄叫びをあげて

Kくんの部屋の中を駆け回りました。

 

Kくんとお兄さんはびっくりしてぼくを見ていました。

 

ぼくは自分が変な行動を取っていると感づきましたが、

もう止まりません。

 

その時はそうするしかなかったのです。

 

初めての感激感動に

どうリアクションしていいのか

ぼくの心のプログラムの中には

まだその準備が何もなかったのです。

 

びっくり

 

 

それ以来、

 

ぼくは自分の父親も

ある日突然豪華なオモチャを買ってきて

サプライズしてくれると

勝手に思い込んでしまいました。

 

今日は帰りが少し遅くなるよ

という連絡が父親から入ると、

ぼくは心をマックスにときめかせました。

 

キター! 

今日こそだぞ!!

 

お父さんがオモチャ屋に寄ってきちゃったりするぞ!

 

 

手ぶらで帰ってきた父親を見て

「がぁーん」

という鈍く重い梵鐘(ぼんしょう)が

ぼくの心の中で鳴っていましたが、

すぐに気持ちを取り直し

サプライズは延期なんだ

と自分に言い聞かせ、次へと期待をつなげました。

 

単純なんですネ。

 

 

休みの日に父親が家でテレビなど見ていると、

「出かけないの?」

と、聞かずにはいられませんでした。

 

「どこかへ連れて行ってもらいたいのか?」

と反問されると、

 

「一緒じゃ、だめじゃん」

と、口を尖らせてふくれました。

 

父親にはまったく分からない

幼稚園児の心境だったことでしょう。

 

 

いつまでこの勝手な期待と落胆の日々が続いたのか

 

今となっては思い出せないけれど、

案外、ずいぶんと長い間

ぼくは自分にもいつかサプライズがやってくる…

そうイメージして心をときめかせていたと思います。

 

 

Kくんの家で味わったあの突然の高揚感。

 

ちょっと不思議な幸せ感。

 

 

ぼくはそれと同じものを自分の家で

自分の親からも与えてもらいたい。

 

それを当事者として

自分でも味わってみたいと強く思っていました。

 

おねがい

 

 

結局・・・

 

ぼくはその感覚を味わうことはありませんでした。

 

それを期待する気持ちもいつしか消えていました。

 

 

ぼくの親は、

そういうことを子どもにするような親ではなかったのです。

 

でも、だからと云って、

ぼくはその点で自分の両親を恨んだことなどありません。

 

ぼくの親は、ぼくの親として

彼らのやり方で息子のぼくを愛してくれましたし、

彼らの精一杯の中で、ぼくに豊かさも与えてくれました。

 

それ以上どうやって

ぼくは求められるでしょう?

 

ぼくは両親に感謝していますし、

あの人たちの子どもで、ぼくは幸せだなと思っています。

 

ただ

 

まったく別の次元で、ぼくは感動してしまったのです。

Kくんのお父さんの粋な計らいに。

 

もしかしたらぼくはあの日

特別という感覚を初めて知ったのかもしれません。

 

仕事の合間に、

子どものオモチャを買いに行ったKくんのお父さんの行動に。

 

ぼくは忘れられないのです。

 

Kくんのお兄さんの上気した表情を。

 

そのお兄さんの顔と

姿を現しはじめた包装紙の中のプレゼントを

交互に見ていたKくんの目を。

 

ぼくらの包まれていた

侵すべからざる神聖なあの空気を。

 

包装紙をお兄さんが破いている間の

Kくんとぼくが正座して待っていたあの時間を。

 

 

ぼくはちょっとの間、

本当に息もできないくらいに興奮していました。

 

部外者で良かったくらいです。

もしもぼくがサプライズを受け取る当事者だったら

そのまま卒倒してしまっていたでしょう。

 

 

あの日、あのとき、

 

ぼくは

人を喜ばすことのパワーの凄さに心が震え

 

そのとてつもなくどえらいステキさを知りました。

 

 

Kくんもお兄さんも、そして、Kくんのお父さんも

この日のことをもう憶えていないかもしれません。

 

でも、50年近く経った今でも、

ぼくは窓から見たKくんのお父さんの自転車を

その荷台にくくりつけられた箱を

鮮明に思い出すことができます。

 

包装紙から鉄道模型の箱が姿を現す瞬間の

息苦しいまでの緊張を

自分の心によみがえらせることができるのです。

 

 

人を喜ばす行為が

感動を与え、

その感動は永遠の命を得て

人の心の中に生き続けられるのですネ。

 

 

その後のぼくが

 

少年時代から映画にのめり込み、

 

青年期に音楽でステージに立ち、

 

アメリカで俳優となったり、

 

自分で映画を撮ったり、

 

エンターテイメントのステージをしたり、

 

そして、カウンセラーとなって、

 

アカデミーでも楽しさを中心に講義をしたりして、

 

そもそも

 

ぼくのすべての活動の根底にある

 

夢をあきらめない世界を創りたい

 

という想いは

 

もしかしたら

この日の出来事が

ぼくの心のどこかで繋がっているのかもしれません。

 

 

 

 

グラサン