昨日、辻仁成のライブに行って来た。
25年ぶりくらいに辻さんの歌を聴いた。もちろん歌は良かったし、曲もすごく良かった。でもボクにとって、なにより良かったことは、辻さんがああしてステージに立ち歌っていたこと、ギターをかき鳴らしていたことだった。
ボク17才、辻さん22才。六畳一間のアパートで辻さんがギターを弾き、エコーズの曲をふたりで歌っていた。
それがいまのボクの原点になっていると云える。その原点の人が、再び一本のギターを抱えステージに立ち、少し年季の入ったしゃがれた声で叫んでいた。

俺はサムライ。
海を渡って亡命したサムライだ。

ロッカーと作家の辻さんが刺激的に影響し合い、成熟したメッセージ性の濃い歌ばかりだった。
「どうだった? 昔と変わってなかっただろ?」
楽屋に行くと、ボクの顔を見た途端、辻さんはそんなことを聴いてきた。
正直どう答えていいか分からなかった。月並みな社交辞令も本音の混じった鋭利な修飾語も、ボクの口からは出てこなかった。
そのときボクの心にあったものを、的確に表す言葉をボクはまだ知らない。いつか自分の語彙が増え、言葉に磨きがかかって、伝えられる時が来るのだろうか? そのときが来ることを信じ、ボクは表現することをあきらめ、ただ目を見て頷いただけにとどまった。
「俺の弟分なんだ」と女性自身のコラムに書いてくれたときに感じた喜びと、昨日の不思議な気持ちを、ボクは自分の道を進みながら、もう少し熟成させることにする。辻さんが亡命したサムライなら、ボクは音楽や役者の世界から脱藩して浪人になり、いまだ自分の世界を探し求めて彷徨っているひとりのサムライだ。
ボクの映画「オトコタチノ狂」が、海外の映画祭に出品されたときの英語タイトルは、「SAMURAI MAD FELLOWS」という。
狂ったサムライたちではなく、サムライたちの中の狂という意味だ。
昨日の辻さんは、そのサムライとしての自分の中の狂を目覚めさせ、吠えていた。
それ以上でも、それ以下でもない。
そもそもサムライとは、そういう生き物なんだ。
ボクはそう信じている。