天台思想入門11 無明とは | 釈尊と共に生きる、西洲のブログです!

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法華経は釈尊の肉声の教えの経典です。あらゆる経典の中で、法華経は、別の名を
「最上王経」とも呼ばれ諸経の王でもあります。女人成仏をはじめどんな衆生も
生きるもの全てを救おうとする仏陀の方便の力は、法華経のすばらしさです。

日本仏教の故郷となった比叡山の宗派は天台宗である。天台宗の教えを知らなければ、日本仏教の教えの本当の意味は分からないことになる。天台宗は「法華経」によってできた教えであり、「法華経」は日本人の心のなかにもっとも深く浸透したお経です。そこで天台思想とは❓ともに学んで行きましょうひらめき電球

 

 

無明は渋柿のように.....時計

 

 

無明」というのは微細な迷いである汗 ひじょうにかすかな煩悩で、「大乗起信論」(だいじょうきしんろん)では忽然念起(こつねんねんき)という。忽然として無明は起こってくるのだビックリマーク

 

だから無明を破るということはたいへんなのだという。無明というのはひじょうに微細な迷いだから、それを伏するということはたいへんなことであるあせる

 

無明を断じているのは別教(べっきょう)の位であるが、そのうちだんだん修行して円教(えんきょう)になると、無明はそのまま法性(ほっしょう)であるということにだんだん気がついていく上差し

 

あるいは「大乗起信論」の段階でも、無明がそのまま真如(しんにょ)であるという円教の段階までも入りうることは可能である。

 

渋柿(しぶがき)の渋そのままの甘味かな」、渋柿は干しておくと甘くなるOK 渋柿というのはこれは無明であるビックリマーク この無明もだんだんと中道観を実施してくると、別教の段階であっても、無明がそのまま転じて真如になることも可能なわけであるチョキ

 

無明と真如はどこまでも相対立し相矛盾するものではあるが、最後の中道観を修する段階、十回向(じゅうえこう)の段階まで入ってくると、なんとなくこれもそのまま味わいが出てくる、そういう境地があるわけである虹

 

人生もそうで渋柿の渋がそのまま甘味かなという感じが年をとるとおのずと体現されてくる若いうちはどこまでも渋柿は渋いそれが五十歳六十歳を過ぎてくるとなんとなく渋柿もそのまま甘くなってくる叫び

 

そういう境地というものが中道観によって開かれていくのだということであるキラキラ

 

(天台思想入門、鎌田茂雄著書参照)より

 

 

追記、無明とは微細な迷いだったとは滝汗 しかし修行が進むと最後には「無明を破し仏果(ぶっか)を証(しょうう)」ることができるとなっています。少し難しくなりましたが、渋柿の例で何となくわかった感じがしますね叫び

 

 

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