日本仏教の故郷となった比叡山の宗派は天台宗である。天台宗の教えを知らなければ、日本仏教の教えの本当の意味は分からないことになる。天台宗は「法華経」によってできた教えであり、「法華経」は日本人の心のなかにもっとも深く浸透したお経です。そこで天台思想とは❓ともに学んで行きましょう
苦行修行では悟り(成道)は開けない
仏教はもともと中道(ちゅうどう)ということをいうが、中道ということは真空妙有(しんくうみょうう)と同じことで、もともとは、お釈迦さまの修行の悟りを開く経過によって中道というのは生まれてきたのである
はじめは苦行修行といって、肉体をできるだけ苦しめて煩悩を切断してしまうという考え方をやっている修行者がいるが、お釈迦さまもはじめはそれをされた
あるいは一方には、世の中は無常でいっさいは滅んでいくのだから、刹那(せつな)の欲望を満足させればいいという快楽主義もいる。仏教はどちらもとらず、苦楽に偏らない、それで中道の立場をとるのだというのである
お釈迦さまは自分の前の仲間の五人の仙人たちと森林で苦行をしたが、苦行を捨てて、尼連禅河(にれんぜんが)のほとりへ出てきた そのときに村の少女がミルクを差し上げたのをおいしくいただき、苦行の断食で疲れた体をいやした
これは苦行者からみると堕落であるが、しかしそうではなくて、そのミルクによって体内に活力を回復して、結跏趺坐(けっかふざ)され、悟りを開いていく それが中道であり、仏教では中道をとるわけで、一方に偏らないということである
人生をみてもそうで、自分をいじめてみたり、あるいは遊んでみたり、こっちに来たり、あっちに行ったり、いろいろである。青年時代に一生懸命やっていたのが、いつか中年で遊んでしまったり、そういう振幅のなかで、おのずと人間はこの真ん中の生き方とういものを体得していくわけである
ある意味では中道というのは諦(あきら)めとも考えられる。若いときは人生に大きな理想をもつが、中年以降になるとそれは全部消えて消えていってしまう。一種の諦めともみられるが、諦めという意味ではなく、本当の人間の進む中道が正しいのだということをいうわけである。どちらに偏るということはよくない
しかし逆にいうと、両極端に偏ったからそれがわかったのだといえる。このように振幅してはじめて落ち着いていくわけで、両極端にいくものだから、中道の道というようなものもおのずと自分で体得されていくわけだ
そういう実践的なこともあって、哲学的にも中道ということがいわれてきて、それによって無明(むみょう)というのをなくしていくのだという
無明は次回に。
(天台思想入門、鎌田茂雄著書参照)より
☆ 過去参考ブログ 釈尊に生きる!釈迦伝 その1(修行の6年)
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追記、お釈迦さまの苦行修行の6年はあまりにも過酷です 死ぬ覚悟がないとできませんが、悟りへの道は本当に簡単なものではないのは確かです が、悟りを開いたお釈迦さまの教えを素直に学べば、私たちにもまだまだチャンスはあります そう今回のテーマ❝中道❞ の教えもそうですね
法華経は釈尊の肉声の教え、経典です。 是非とも、
釈尊のご慈悲を体験してみてください(西洲)
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真実は一つ!!