「人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人たちは、見たいと欲する現実しか見ていない」

 

 

この言葉がユリウス・カエサルが言ったとされていますが、時代を超えた意味があると思います。

人間というのはご都合主義で、本当は見たいものしか見えてないのに、自分は見えている、分かっていると思い込む。それは人間の愚かさと自惚れそのものです。

自分が見えているのは現実のほんの一部に過ぎないという謙虚な態度、未知の部分があることを前提にしていれば軽忽になにかに飛びつくなんてしないはずなんですよね。

 

 

ワクチンに関しても同じことが言えると思います。

人間は自分が一歩前に踏み出したことを後戻りするのは心理的に抵抗があるものです。なぜならそこには自己否定が伴うからです。

全人口の八割が打ったワクチンの被害がなかなか認知されないのは、もちろん言論が統制されているのも理由の一つでしょうが、厳しい自己否定がしづらいのもあるのかもしれません。

つまり打った側と打たせた側は一種の共犯関係(というと語弊があるかもしれないので、近しい関係というか)になってしまうのだと。

 

 

打たない人間に対して、なぜ打たないのかと直接言った人は僕の周りにも少なかったですが、言わないまでもそう思っていた人は多かったでしょうし、そのように接種に前のめりになった自己の心理を否定するのがしんどい面もあるかもしれません。

そうした自己の認知の歪みを修正するのは間違いを認める素直さと批判力が必要でしょうが、どちらも持ち合わせていない人間は多いでしょうね。

そしてそういう人間が多いために政府の失策は批判されず、訂正されず、責任も取らせず、河野太郎のようなホラ吹きの最低クズ野郎や、それと同類の連中が、いまだに権力の座に収まっています。

 

 

日本人の謎の大量死を追っている藤江さんの、モデルナの特定のロットが「死のロット」だったという動画ですね。

30分の長い動画なのでスクショ貼って簡単に内容説明しますね。

 

 

このC市とは愛知県あま市であることが後で明かされます。

ワクチン被害の救済制度で死亡認定された二名が同じロット番号のワクチンを打っていたそうです。

 

 

M社とはモデルナのことですね。

モデルナはやめたほうがいいよという周りの噂話は聞いていましたが(そもそも打たないという選択肢は考えないのか?と僕は思っていましたが)、この動画に出てくるロットは2022年の2~3月に使用されたもの。

 

 

 

↑は2021年8月28日の記事ですが、2022年以前にもモデルナは異物混入があり、死亡例も報告されていました。

しかしこの時厚生科学審議会部会の森尾友宏部会長は「死亡例が偶然に生じた可能性もあり、現時点ではワクチンとの因果関係は不明だ。今後、情報収集に努め、慎重に評価を行っていく必要がある」(記事引用)と言い、原因究明がおろそかにしたためにその後も死者を出すこととなった。

このことに対する責任をなぜ問わないのでしょうか。

 

 

ていうかこれだけでも僕はかなりムカつきますし怒っているのですが、マスコミは報道しませんし、ていうかこんなことがあったのに世の中の連中はなぜ怒らないでいられるのでしょうね。

命の重さが分からないのか、当たり前の事を当たり前と認識できなくなっているのか?

価値判断がバカになっているんじゃないのか?

自分は無事だったから良かった、で済ませているのか?

もしかしたら死んでいたのは自分だったかも知れないのに。



物事を深く考えないお目出度い人達が多数派の世の中では政府が腐るのも当たり前かもしれません。

 

 

・・・怒りながらブログ書くのもアレなんで、スクショをサラッと載せますね。

同じロットで出た死亡者の事例ですね。

 

 

 

ワクチン死亡者は特定のロットに偏っているようですね。

しかし事前に「このロットは危ない」なんて情報は知る由もありませんし、そんな情報があればそもそも誰も接種しなかったでしょう。

つまり、接種した国民の八割が「死のロシアンルーレット」に参加させられたようなもの。

そんなことをやらされて、なぜ怒らないでいられるのか。



日本人は間引きされる順番待ちの家畜なのかもしれませんね。