以前の記事を書いていて思ったんだけど、保守というのは愚鈍な人間の思想なんじゃないかね。

保守がやみくもな進歩に反対するのは、性急な進歩についていけないからという面もあるかもしれない。

それは土臭い鈍百姓であり、歴史や伝統にとらわれ進歩についていけない者たちであり、またどこか懐かしい、我々を育む風土の匂いである。

 

 

 

僕には愚鈍なところがあって、どうもこれは持って生まれた性分なので、変えることもできないだろうと思っている。

僕は仏文学科の落ちこぼれで、最新の現代思想のトレンドである構造主義なんてチンプンカンプンだった。

同級生が華麗に繰り出す「脱構築」といった言葉が飛び交うのをぽかんと眺めるだけだったんだな。

そんな僕が読み込んだのはサルトルだったが、後発世代の構造主義のジャック・デリダやミシェル・フーコーと論争して負けたとかで、同級生に「サルトルなんてもう否定されたし古いよ」なんて言われたことを覚えている。

だけど僕は、「脱構築」なんかよりも「実存は本質に先立つ」のほうが肌に合うんだよ。

そんな言葉をぐっと腹に抱えながら、僕はサルトルを読んだのだ。

 

 

 

僕の好きな坂口安吾も仏文学系統の人なのだけど、安吾を重要な作家と考える同級生は少なかった。

「無頼派」というイメージ、「退廃的」とか「滅びの美学」的な、感性的ではあるけれどあまり頭がよくなさそうなイメージを持たれがちで、そもそも読まない人が多く、この点でも肩身の狭い思いをしたものである。

そんな仏文科であるから、周りは政治的にもリベラルな人が多く、どうも僕はこの点でも肌に合わなかった。

で、僕はそのころほんとに疑問だったのだ。

なんで自分はこんな仏文科なんて世間からズレた場所にいるのに、そこからもさらにズレているのかと。

 

 

今にして思うんだけど、それは僕自身が土着性にまみれた土臭い鈍百姓だからなんじゃないかなとね。

そう考えると実に納得がいくのである。

あまり頭がよくなくて僕の抽象的思考力が足りてないというのもあっただろうけど、それ以上に僕にとって大事なものがフランス的な合理性ではなかったからかもしれない。

人間とは愚かなものだとさんざん僕は言ってきたが、それは鈍くさくて、頭が悪く、悪弊や陋習に囚われ、強きになびき弱きをくじき、全く良いところもなく、社会の改善にも、歴史の進歩にも寄与などするはずもない存在である。

つまりそれが社会の中で普通に暮らし生きる大勢の人たちの姿であると。

しかし同時に、その人間たちこそこの社会、世界を支え、動かしているんだよね。

それが鈍百姓というものではないか。
だから、僕自身が鈍百姓であるということは、以前の記事で書いた批判は僕自身に向けられた批判、いわばブーメランになるわけだな。

 

 

 

 

 

 

フランス語というのは非常に原理原則に忠実に作られていて、文法上・発音上の例外が非常に少ない。

その少数の例外をgauloiserieと呼ぶのだけど、これは「ガリア人風」という意味であるが、ローマのカエサルに征服され文明に目覚める前の、野蛮人だった頃の名残りだというのである。

このことからフランス人が自分達のアイデンティティをどこに置いているかが分かるのだけど、彼らはローマ文化の忠実で正当な継承者である(であろうとしている)ことに誇りを見出している。
たとえば日本語では同じ漢字でも音読みがあり訓読みがあって日本人でも間違えるくらいだし、英語でも綴りはworkで発音はワーク、walkでウォークと綴りと発音が一致しない単語は少なからずあるのだけど、フランス語にはほとんどこれがない。綴りを見れば、ほぼ発音が分かるようになっているのだが、それは言葉よりも原理原則を重視して、原則に一致させよう変えていった結果なのだ。「言霊(ことだま)」という言葉があって、言葉自体に宿る力を信じてきた日本語とは真逆の感受性である。

 

 

ちょっと長い引用になるけど、これは以前に書いた記事の抜粋である。

フランス的感性とは、一言で言うと「自然は原理原則に合わせて改変すべき」というものである。

つまり原理原則が主で自然が従だという考え方だな。

それに対して、日本的感性はあるがままの自然をそのままふわっと受け入れるような感じがある。

僕たちはその言葉が背負ってきた歴史や風土、自然のほうを重視して、それを改変することを好まない。

フランス語と日本語は真逆なんだよね。

 

 

しかしそのようなフランス語にも、原理原則から外れた少数の例外があるにはある。

それを「ガリア人風」と呼ぶが、その意味は、それは自分たちがローマによって文明化する以前の野蛮人だったころの名残であると。

つまりフランス語にとっては原理原則があることが「文明的」であり、野蛮であるということは、それがないということになる。

こう見ていくと、フランス語というもの自体に進歩主義的色彩があることが理解してもらえると思う。

この国で革命が起きたのはある意味必然だったのだろう。

 

 

そして、フランス語から見た日本語は、漢字の読みも滅茶苦茶で、どこに原理原則があるのか見出しがたい言語だろう。

原理原則がある=文明的だというフランス語から見れば日本語なんて野蛮人の言語だということになるかもしれない。

 

 

日本人にとって難しいのは、僕たちが明治維新後の文明開化で西欧文明を取り入れ、進歩主義の文脈に乗った時から、進歩的な見方から見れば野蛮人の言語である日本語を使って会話し思考する自分たちは劣っているのだという、自国の生来の文化や言語を劣位に見る見方ができたことだと思うんだよね。

これは僕たち一人一人がどう思うかは別として、構造的にそうなっているとみるべきではないかと思う。

そしてそのことが僕たち日本人の自信のなさや自己否定的な傾向、やみくもな欧米追従志向に繋がっているのではないかと。

日本人のアイデンティティの危機は、僕たち自身が受け入れた進歩主義の文脈からもたらされたもので、構造的にそうなっているがゆえに、常に脅かされ続けているという見方ね。

それは確固とした原理原則、価値判断の体系が僕たち自身にないことからきているに違いない。

 

 

よく海外のゲストハウスで日本人の男性が欧米人に「アイアムサムライ!」なんて言っているのを見たりするが、どうも自分を大きく見せているような感じがしてなんとなく気まずく感じてしまうのは、僕たち自身がいかにサムライから遠い存在か、もうわかっているじゃないか。

サムライを名乗るからには腹を切る覚悟がなければならない。

そして日本のアニメが好きだなんて外国人がいるとうれしくなって一生懸命しゃべってしまう。

ネトウヨや保守が戦前に回帰せよと言い、軍国主義にあこがれを抱いてしまうのも「アイアムサムライ」と同じで、自分を強く見せたい、恐く大きく見せたいという願望からくるのだろう。

それもやはり自信のなさからくるものだろうね。

 

 

しかし、僕が旅していて心惹かれた風景は、フランスをはじめとしたヨーロッパのゴージャスで美しい街並みよりも、また日本のような整然と整った無機質なビル街よりも、アジア的な雑踏、市場の喧騒、人間の生活の匂いのする風景だった。

その中にある人間的な匂いが懐かしくて、それに包まれているほうが安心できたんだよね。

 

 

僕は、風土に根差した土着性、悪弊や陋習を憎んで攻撃しながらも、同時にその中に懐かしさを感じているのかもしれない。

矛盾しているように見えるけれども、案外そうではないのかもしれないよね。

なぜなら、家族とかふるさとと言うものは、反発しながら懐かしむものだからだ。

そして家族やふるさとは無条件に生まれた時から与えられたものであり、変えられるものでも、変わるものでもないのだろう。

そしてそういうものが自分の根幹をなしていると気づくと、やはりそれを守らなければならないと思うんだね。

それこそが愚鈍者である誇りであり、そして僕が保守である理由だということなんだな。