「美しい国日本」「日本は素晴らしい国」「日本人は優秀だ」

今の保守や右翼はこうした言葉を好んで使うが、昔から僕はこの手の言葉が胡散臭くて嫌いだった。

美しい国、素晴らしい国というからには、なにが美しくて、どう素晴らしいのか、具体的で論理的な注釈がなければ納得できないのだけれど、こういう人たちってそれをすべてすっ飛ばして、ただ美しい、素晴らしい、優秀だと連呼する。

このような自己賛美の言葉は論理による裏付けがないから結局張子の虎で、その後ろにはなにもない。空っぽだよ。

こういう人たちは靖国神社に参拝するのが好きで、かつて日本を守るために戦った英霊たちに敬意を示し、また自分たちも英霊たちに見習ってこの美しい日本を守ろうと決意を新たにする。

しかしそのように語られた物語としての日本や英霊の中に、本当の日本や英霊の姿はあるのだろうか。

例えば戦争で亡くなった日本兵がどんな死に方をしたのか知っているのか。

 

 

戦争中の日本兵の死因は、6割や7割が餓死や病死なのだそうだ。

勇ましく戦って死んだ者よりも、戦う前の段階で死んだ者が多かった。

大岡昇平の「野火」は戦争小説であるが、勇敢な戦闘描写なんてどこにもない。

あるのはみじめに空腹を持て余しジャングルをうろつきまわり、人間と獣の境目をさまよう者の姿である。

誘惑に耐え兼ねついには戦友の死肉を口にしかけるが何とか思いとどまり、「私は人間のままでいられた」ということで話は終わるが、本当の意味で戦争が日本人に突き付けた課題は、そのような究極的な倫理上の問題であって、それは美しい国だとか、英霊だとか、きれいに飾られた言葉の中にはないはずだ。

 

 

人間は物語の中で生きているものである。

自分自身を納得させるために物語を作り出し、また他人を納得させるためにそれを話す。それを本当だと思い込み、そのために命すら投げ出す。

物語は個人の産物のみならず、社会や国家も提供する。その物語はで僕たちに帰属意識を与え、「安心・安全感」を得ることができる(しかし本当に安心で安全かはまた別の話だ)

現実を生きながら「夢」や「空想」を生きている、と言えば荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、人間は案外そんなものである。

 

 

尽忠報国、天皇陛下万歳、お国のためご奉公してまいります。

そう誓って輸送船に乗り込み太平洋の島々に到着した若者たちが直面した問題は、戦闘行為よりもより多く飢えや病気だった。

それは自分たちの信じる物語が暴力によって破られ、その裂け目から見えてくるものであり、概念が打ち破られ人間の本能的な生存欲求が露になる、それこそが人間の真実だったに違いないのだ。

 

 

靖国神社に参拝し、感謝と感激に頬を濡らし、英霊たちに見習って日本を守っていこうと心を新たにする人たちに、そのような真実、英霊たちの真実の声は聞こえているだろうか。

もちろん死人に口なしではあるが、戦争の死者の過半数が餓死や病死であるという事実をもとに考えるのであれば、以下のようなものではないだろうか。

「…もう食えるものは食い尽くした。最後に腹いっぱい食ってから死にたい」

「十分な薬も医療もない。せめて苦しまずに死にたい」

「負傷し仲間に置き去りにされた。手りゅう弾が置き土産だ」

「…俺は仲間に襲われ食われたんだ。あいつらを恨むつもりはないが、こんな死に方、誰にも言えない」

 

 

国のためと送り出しておいて、国家は満足な食事や医療を提供しなかった。

これは自国民に対する明確な虐待、ネグレクト行為であると言えるよね。

僕があえて虐待、ネグレクトと言ったのは、国家と国民の関係は、家庭内の親と子供、夫と妻、個人間の関係に置き換えるとわかりやすいかもしれないと思ったからだ。

例えば、よく戦争中の話を聞いて、俺みたいなヘタレな奴にそんなに勇敢な兵士になれるはずがない、昔の人はすごいなんて言う人がいる。

しかし僕は断言できるけど、心配ご無用、軍事教育さえしっかりやれば僕たちは過去の英霊と同じような兵士になれるはずだ。

ブラック企業に過重労働、過労死。

なんとなれば、平和な時代であるにもかかわらず、軍事教育などしなくても僕たちは生存を脅かされるところまで追い込まれることに慣れているし、それほどに僕たちは指示された仕事や任務に忠実である。行為が戦争かビジネスかの違いでしかない。

敗戦で世の中がガラッと変わったにもかかわらず、過去にも現在にも、共通する日本人の姿を見ることができる。

だとすれば、過去にも現在にも通底する、そういう人間を育てる日本の精神的風土があるということになる。

 

 

 

でそう考えるとね、虐待するものとされるもの、これは表裏一体の関係で、虐待するものがいなければされるものも成り立たないし、逆もしかりで、虐待されるものがいなければするものも成り立たない。

両者は共依存の関係で、共に依存しあっている。

しかも虐待を受けて育った子供は、配偶者に虐待する相手を選んだり、自分が虐待したりする。

虐待は繰り返されるもので、世代を超えて受け継がれてゆく。

 

 

そう考えると、今の保守や右翼の戦前回帰志向、自民党が支持される理由がなんとなくわかる気がするのだよな。

保守とは「保ち守る」という意味だけれども、彼らが守りたいのは国家であって国民ではないのは明らかでしょ。

一例をあげれば増税メガネが税金を上げるのは、国家予算が破綻しないためという理屈だが、その理屈の主語は国家であって国民ではない。

しかしおかしなことに、国民はそういう政治を長年支持してきた。

自分たちが大切にされないことはわかっているのに大切にしない者を求めるという矛盾は、それを「虐待」の構造に当てはめるとなんとなく理解できる気がするんだよな。

繰り返しになるが、虐待するものとされるものは共依存の関係にあり、両者はお互いに求めあい、必要としている。

ろくなことにならないと理屈ではわかっていても、結局は肌感覚に合うものを選んでしまう。

英霊たちが国家による虐待やネグレクトで死んだとすれば、その戦時中の記憶が強く日本人の中に精神的風土として根付いているとすれば、繰り返され受け継がれていく虐待の構造は、今も生きているということになる。

しかしその虐待の起源は戦時中ではなく、ひょっとしたらもっと古い時代かもしれないが、そこまで遡るのは僕の手に余るのでやめておく。

 

 

経済が縮小しているのに国は何もせず放置、結局次第に少なくなる椅子取りゲームに参加せざるを得ず、参加者たちは自分たちの居場所を奪い、奪われまいと必死に争う。

それは限られた食い物をめぐって争う「英霊」たちの姿、仲間の死肉すら貪った真実の姿と同じであるかもしれない。

そう考えると暗澹たる気持ちになる。

しかしそういう状況にリアリティを感じるという性向(リアリティを感じるということは、リアルということとは別である)が、日本の精神的風土から生じているするならば、それはかなり根深い問題だ。

 

 

日本のいわゆる保守派が守るものは国家であって国民ではないと書いたけれども、本来の保守の意味は、そのようなものではないはずなんだよね。

以前にも書いたけど、保守はリベラルの対立概念で、理念で暴走しがちなリベラルに歯止めをかける役目である。

では本来の保守は何を守るのか、それは人間そのものである。

人間を中心に据え、その位置から思考するということだ。

では人間とは何かといえば、ものを食わねば腹も減るし、体調崩して病気にもなるし、無理が祟ればは死ぬものだ。

そんな当たり前のことを!と思うかもしれないが、理念が暴走するとしばしば人間を忘れるんだよね。

そんな例は歴史上いたるところに見つけることができるし、人間は当たり前のことをしばしば忘れるのだ。

戦争中に大量の日本兵が餓死したのもそういうことでしょ。

その時は「国家」という理念が暴走して大惨事を起こしたわけで、今の「美しい国」とか言いたがる、日本のいわゆる保守と呼ばれる人たちも同じわけだ。

結局現在日本の保守と言われる大多数の人たちは、自分たちが嫌うリベラルと同じく人間を忘れ理念に酔っているということになる。「国家」という理念にね。

だからこの人たちは保守なんかじゃなく国家主義、全体主義とでも呼んだほうがいいと思うのだけど、それが保守と呼ばれてしまうのは、結局は虐待の循環という構造を生み出す、日本の精神的風土があるのだろうね。