中国には当局が外来語を統制する動きがあるという。
そんな話を中国人留学生から聞いたことがあったのだけど、新聞や出版物の発行を認可する際に英語やアルファベットの略字をそのまま使うことに対する規制があるそうだ。
上から規制するというのはいかにも中国らしいやり方で、僕は必ずしもそれに同意するわけではないのだけど、何を意図してのことかは分かる。
自国の言語や文化の保護である。
最近と言ってもここ数年の話だと思うが、「フレイル」という単語が急にメディアに出てきた。
何の意味だかさっぱり分からないのだけど、↓のような意味らしい。
フレイルは、日本老年医学会が2014年に提唱した概念で、「Frailty(虚弱)」の日本語訳です。 健康な状態と要介護状態の中間に位置し、身体的機能や認知機能の低下が見られる状態のことを指しますが、適切な治療や予防を行うことで要介護状態に進まずにすむ可能性があります。(引用元→)
要するに「虚弱」って意味でしょ。それなら「虚弱」って言葉を使えばいいじゃん。なんでわざわざ「フレイル」なんて呼ぶのか。
というかフレイルと聞くと、ゲームのRPGに慣れ親しんだ僕にとっては、こういう武器↓のことを思い浮かべるんだよね。
フレイル(英:flail)は、連接棍(れんせつこん)もしくは、連接棍棒(れんせつこんぼう)と訳される、柄の先に鎖などで打撃部を接合した打撃武器の一種。元々は、農具で穀物の脱穀に使われていた穀竿が原型となっている。(wikipediaより)
なるほど。フレイルがどういう武器かまでは知らなかった。また無駄な知識が増えちまったな。
メディアで「フレイル」という言葉が出るたび、僕の頭の中ではこういう武器がイメージされるから、混乱するんだよね。
だから本当に止めてほしい。俺の頭を混乱させるな。
いっそカタカナでなく、Frailtyとアルファベットで表記してくれたほうがまだマシなんだ。
ところがこの「フレイル」が、公的な医療機関含めて広く使われるようになってきている。
お役人も医者もなんなら使っているよね。
そういう動きに僕はちょっと戸惑うのだけれども、日本の英語教育の中でも馴染みのない語彙をごり押しする気配に、なにか意図があるんじゃないかと勘繰らずにはいられない。
中国が外来語を上から規制するならば、日本は逆に上から推進しているんじゃないかと。
僕は別に外来語を使っちゃイカンなんて頑固なことを言うつもりはないのだけれども、翻訳は外国由来の概念や言葉を自国の言葉に変換、つまり自分たちのものにするという努力なんだよね。
明治期に先人が大変な努力をしたわけだけれども、そうした遺産に目を向けずに、外国の言葉をそのままカタカナに直して使うというのはいかがなものか。というかそもそも、もともと日本語の中にあるものを使わないのはなぜなんだ。
単なる感情論で言っているわけではない。これは僕たちの心理にも影響する問題なんだ。
例えば若い颯爽としたサラリーマンがスタバのコーヒー片手に、『この書類はASAPでお願いします』とか、『それって、エビデンスあるんですか?』とか、『アグリー!』とかいうわけでしょ。
そうしていると、なんだか自分がマンハッタンのビル街を肩風切って歩く外資系エリートみたいで気分が良くなるわけだ。
そんな気分にひとしきり浸った後、帰宅中の街を歩き、満員電車におしこまれていると、ここは日本であるという、残酷な現実に突き当たる。
無味乾燥で画一的なビル街。薄汚れた古臭い飲み屋街。しょぼくれくたびれたオヤジたち。
それを見て彼らはこう思うのだ。
「こんなかっこ悪くてダメな日本はアメリカみたいにおしゃれでカッコよく変えなければならない!」と。
こうして日本人臭さを嫌う日本人が出来上がるわけだが、この傾向はエリート層ほど強いものかもしれないね。
そう考えると、政治家や官僚がなぜ日本のためにならない改革を進めるのか、分かる気がする。
別に日本を悪くしようというわけではなく、現状の日本を軽蔑する気持ちから、日本を変えたいという純粋な気持ちに突き動かされているのかもしれない。
悪いことは何も悪いことをしようという気持ちから起こるものではない。善意からなされる場合もある。
「地獄の道は善意から通じている」
日本には旧態依然とした規制があってそれが日本の成長を妨げている!
国際化、国際競争、その環境に順応するためと称され行われた改革。
それらは結局建前で、実態は外資規制を撤廃してバナナの安売りみたいに公共性の高い日本の事業を売り渡すということだったが、若いころは僕もそれをすっかり信じていた。
僕はこのブログでさんざん人をバカだバカだと言ってきたが、懺悔しよう。僕もそのバカの一人だよ。
しかし日本人の欧米由来のものや概念をありがたがる傾向、例えばサブスク、サブスクリプションとは定期購入、会費の意味であり、ちっとも新しい概念ではないのだけれども、アメリカ由来のネットサービスとともに使われると、なにか新しく、かっこよく感じてしまう。
僕たちは西欧文明の優位性を無条件に認めていて、無意識のうちに欧米至上主義であり、無批判に欧米の言うことや概念をを受け入れてしまいがちだ。
僕たちは政治家をアメリカの犬だと呼ぶけれども、犬は僕たちの心の中にも住んでいるのかもしれない。