物事に対して中立で公平な視点を持つのは実は大変に難しいことだ。

なぜなら人間は知らず知らずのうちに社会や他者から影響を受けるからだ。

そして社会や他者は、常に中立で公平だとは限らない。

そのこと自体に自覚がなく、自覚がないから無批判で、無意識のままに、社会や他者を通じてバイアスのかかった物の見方を受け入れていることが多い。

そして自分では「俺は自分の頭で考えている」なんて思っているわけだ。

しかしたいていは、どこかの新聞だかテレビで言ってることを、オウム返しのように繰り返しているに過ぎなかったりする。

そんな人間が多いことは、身近な人間たちを見ていて分かるよな。

 

 

では「考える」とはどういうことだろう?

そこにはタブーを設定しない批判精神や柔軟な視点から物事を見ることが必要ではないだろうか。

認識の中立性や公平さを確保するのは哲学や思想の領域だともいえるが、多少なりともそれらをかじっていれば無自覚な偏見に対して少しは意識的でありうるだろう。

しかし多くの人間はそんなものに興味はないため、偏見、色眼鏡を付けたものの見方を疑うこともない。

そしてそれらは社会的に他者と共有されることで強化され、自然なものとして疑われることがなくなる。

「日本人としてあるべき見方や考え方」とやらが出来上がるわけだ。

 

 

 

最近僕は日中戦争について調べているんだけど、今の僕たち日本人の中国に対する見方は、この時代に強く形作られたような気がしているんだよな。

あるいはもっと前、明治維新の頃に始まり、日清戦争で勝利したころからかもしれない。

いくつか画像を載せてみる。

 

 

これは日華事変、日中戦争がはじまったときの新聞の報道である。

日中戦争は宣戦布告も大義名分もなく始まった戦争だったが、居留民の保護を名目に叫ばれたのが「暴支膺懲(暴虐支那ヲ膺懲ス)」だったんだな。

ようは「中国は乱暴で怪しからんから懲らしめてやれ」という考えで、一撃を与えれば中国は懲りるだろうという安易な考えで始めた戦争が8年も続いたわけだった。

完全に中国を舐めていたわけで、この新聞の論調にもそれがうかがえるだろう。

同じ戦争の四字熟語スローガンでは「鬼畜米英」があるが、「暴支膺懲」は「懲らしめる」という、相手を下に見た意味があるね。

同じアジアの中国を懲らしめると言っておいて、対米戦争が始まると「大東亜共栄圏」などと言い出した大日本帝国の自己矛盾はひどいものだった。

結局は中国との戦争で行き詰まり、苦し紛れに始まった対米戦争の言い訳、ご都合主義の産物に過ぎなかった。

 

 

これは以前の記事でも載せた画像だが、満州国のプロパガンダに使われた絵である。

当時の日本が中国をどのように見ていたかが分かる。

日本軍の支配下にある満州国は秩序正しい天国で、中国は混乱と殺戮の地獄だというわけだ。

日本の植民地になった地は発展し繫栄したのだから、日本は正しいことをしたのだなんて論調は、当時からあったのだろうし、それは今でもネトウヨを中心に信じられている。

確かに客観的事実として、僕は日本の植民地支配をすべて悪と否定はできないとは思うけれども、かといってすべてを善と肯定することはできないだろう。

他民族に支配されるというのはやはり屈辱なので、そういう主観的事実を甘く見るべきではないよな。

 

 

僕たちの対中国観の根底には、西欧化₌文明化した日本₌行儀のよい優等生である日本人に対する、西欧化を受け入れず、粗野な野蛮人である中国人という構図があるように思う。

これって結局西欧側が世界を見ていた視点で、ローマ帝国がゲルマン民族を野蛮人と定義していたのと同じ論理だと思う。

帝国主義の時代にも、西欧諸国が世界を植民地支配するのを正当化するのに野蛮人どもを文明化するというものがあったが、それと同じ理屈である。

本来明治維新はそうしたヨーロッパの支配に対抗するためだったはずなんだが、いつの間にかヨーロッパ支配に同調しそこに乗っかっていく方向になっていったのは残念なことだったと思う。

 

 

で、そのような見方が行き過ぎると、以下のようなことが起こるんだと思う。

 

 

南京事件の死者数や、この百人斬り競争が事実かどうかについては確かに議論はあると思うけれども、新聞でこのような人斬りを競う記事が当然のように出たという当時の世論の雰囲気は、やっぱり異常だったと思わざるを得ない。

そしてその根底にあるのは中国に対する偏見だと思う。

野蛮人を懲らしめるのは正義で、文明人の責務だというわけだ。

このような見方はは今の僕たちの中国観にすら影響しているのではないだろうか。

 

 

とかく日本の世論は中国に対して強硬姿勢を求めがちだ。

日本人の9割が中国に良い印象がないというデータもある。

ただ世界的に見て中国がそこまで嫌われているかというと、僕は疑問に思うんだよな。

僕は世界を旅したけど、中国がそこまで世界で嫌われているという印象は持たなかった。

だから日本人の9割が中国を嫌いというのは、世界的に見てちょっとおかしな、日本国内でしか通用しない見方なのかもしれない。

「暴支膺懲」がそうであったように。

 

 

現在進行形で進んでいる事態を客観的に見ることは確かに難しい。

しかし歴史を振り返ることでそこに相似点を見ることは可能だろう。

なぜなら、歴史は繰り返すからだ。

 

 

日中戦争がはじまったとき、多くの日本人はあんなに長い戦争になるとは思わなかったそうだ。

また、気が付いたらいつの間にか自由に物が言えなくなっていたともいう。

「暴支膺懲」などと言っていい気になって始まった戦争がいつの間にか泥沼になり、行き詰った状況を打開するために苦し紛れにもっと大きい対米戦争となり、最終的に破滅したのが戦前の日本だった。

その日本の巻き添えになり、多くの若者が死んだわけだが、それらの若者の死を「国のために尽くした」なんて美化せずに、なぜそのような愚かなことで死ななければならなかったのか、歴史を振り返って今に生かすのが、民主主義国家に生きて選挙権を持つ国民の務めではないだろうか。

 

 

戦争とは突発的に始まるものではなく、何十年もの積み重ねで起きるものかもしれない。

ウクライナ戦争は冷戦崩壊後何十年にもわたるNATOの東方拡大でロシアを圧迫し続けたのが原因だし、短絡的に見るとロシアが悪となるが、戦争に至るまでの過程をもっと重視しなければならないだろう。

それは過去の日本も同様である。

特攻隊で敵艦に突っ込んだ若者は日本を守るために死ぬつもりだっただろうが、なぜそのように死ななければならなかったのか、歴史的な視点を持てばまた違った見方ができるだろう。

 

 

しかし今の日本人に欠けているのはこの視点なんだよな。

このような視点があれば、ウクライナ戦争のときにも、はたしてロシアは単純な悪なのかという、もっと冷静な視点が持てたはずだ。

しかし歴史的な背景、数十年にわたる過程を見ずに短絡的な因果関係、戦争を起こしたロシアが悪いと考え、ロシア憎し許すまじと世論は沸騰し、日本人はマスコミの報じるままに正義か悪かのシンプルな世界観で突っ走った。

こんな単細胞で考えなしの日本人なのだから対して反省もしてないし、シンプルな因果関係でしか判断できないから、過去の戦争で若者たちは日本を守るために戦った=それを見習って日本を守るために戦おう、となるのだろう。

だから歴史は繰り返すんだよ。

 

 

今の日本は昔の日本と違って平和で安全だし、民主主義なんだから戦争なんて起こるはずがないなんて考える日本人は多いだろう。

周辺事態条項に防衛費増額、憲法改正に「日本は戦う覚悟を」発言。

しかし最近はどうも少しずつ戦争の方向に向かっているように見えるんだよ。

戦争は突発的に始まるものではなく、何十年もの積み重ねで起こるものだとすれば、今何が起きているか、その過程をよくよく注視しなければならないと思う。