前回の記事で、「和を以て貴しとなすという悪癖について」というタイトルで書いたのだが、書いた後で、どうもこれは、公平とは言えないかもしれないね、と自己反省する必要を感じたんだよね。

 

 

何をもって良いか悪いかとするかは、価値判断の問題である。

日本人には和をもって貴しとなすとする性質があるとすれば、それはいわば「現実」なんだよね。

「現実」は価値判断よりも先験的にあるもので、それを否定しようが嫌おうが、容易にどうこうできるものではない。

また、現実は多面的なので、一面をもってその全部を否定することはできない。

 

 

和を重んじるという日本人の性質は、確かにこういう世界情勢の中、民主主義社会の中での物事の決定の仕方において、マイナスに働くことは事実だろう。

民主主義ならもっと個人がおかしいと思うことを主張しなければならないよね。

なぜなら言葉通り「民主主義」だからだ。

コロナ騒ぎで多くの人が感じた「空気」の支配感は、戦前の日本との太いつながりを感じさせるものだったが、結局日本人は敗戦後も何も変わっていないのであり、また変えられるものでもないのかもしれない。

 

 

このように生まれついてしまったという「現実」は、そのように重いくびきなんだってことだよね。

しかし、一面においてはマイナスに働く性質も、また別の面ではプラスに働くということはあるものだ。

「和をもって貴しとなす」は、確かに日本人の民族的一体感をもたらす上で重要であり、これはほかの民族ではあまり見られない特徴かもしれないんだよね。

海外で、言葉の通じる誰とも出会わない中、ふと日本人と出会ったときに感じるあのほっとした感じ。

スーパーでものを買う時の、「国産品なんだから大丈夫」という信頼感。

同じ日本人が作っているんだからそうひどいことはないだろうということなのだろうが、よく考えてみれば妙な話だ。

 

 

つまり「同じ日本人なんだから大丈夫」というのは多分多くの日本人が持っている感覚だと思うんだが、それは政府に対する信頼感に繋がってしまっている。

それは、コロナを経験した後では正直悪人に付け込まれる脇の甘さでしかないと思うのだけれど、そういう甘さはだいたいの日本人が持っているものだと思うんだよな。

 

 

日本の戦国時代は人口が増え、農業の生産性も上がる発展の時代だったという。

中国やヨーロッパで戦乱の時代というと、ひどい場合は人口が半減したりしているんだが、日本の場合はだいぶ民に優しい時代だったようだね。

もちろんそれでも虐殺や略奪といったひどいことは起きた時代だったが、それでもそこには「これ以上やってはならない」という線引きがあったのかもしれないと考えてみる。

そしてそれが「和」だったのかもしれないとするならば、やはり「和」は歴史を俯瞰すると、悪い面ばかりではなく、良い面にも働いてきたといえるだろう。

 

 

そこで僕が思い出すのは、坂口安吾の「日本文化史観」で、「日本人はもっとも憎悪心の少ない国民の一つである」なんて言葉だ。

安吾がアテネフランセに通っていた時、フランス人の先生が講演で、冷笑的なニヒリストという普段の姿勢に見合わず、クレマンソーの追悼演説を涙ながらに、直接の感傷で語りだしたと。

それを見て安吾は思わず笑いだしてしまったのだが、それをみてその先生は「殺しても尚あきたらぬ血に飢えた憎悪を凝らして、僕を睨んだのだ」という。

 

「このような憎悪は日本人にはないのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人にはないのである。「三国志」における憎悪、血に飢え、八つ裂きにしても尚あきたらぬという憎しみが日本人には殆どない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。およそ仇討にふさわしくない自分たちであることを、おそらく多くの日本人が痛感しているに違いない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能に近く、せいぜい「食いつきそうな」眼つきくらいが限界なのである」

 

 

「日本文化史観」はたしか昭和17年とか戦中に書かれたものなのだが、敗戦後昨日の敵と今日の友とした日本を予言しているかのようで、なかなか啓示的な作品だったりする。

「憎悪心が少ない」というのは生々しい考察で、僕たちは日本人や日本文化を語るときに「大和魂」だの「美しい国」だのと、額縁で飾られた絵のような言葉を使いがちだが、それは実態や現実に即した言葉だろうか。

僕は安吾のこの「憎悪心が少ない」という評のほうが信用できると思う。

そしてそれって、「和を重んじる」ということに繋がっているんじゃないかと思うんだよね。

 

 

ちょっと、ふわっとした感じで話をしていると僕自身感じているんだが、うーん、なんといえばよいのだろう。

坂口安吾と言えば「堕落論」が有名だけど、その中で安吾は「日本人は堕落しなければならない」と言う。

僕はコロナで感じたのは、戦中のような愚かでどうしようもない日本人の堕落しきった姿だったが、安吾はそこから、それが日本人の真実の姿なんだから、それをまっすぐ肯定せよと言うんだよね。

つまりそれは、民族の性質、もっと言うと自分の性質なんてものはどうこう変えられるものではない。

そうした現実を直視して、とらわれた枠組みやあるべき姿を捨て、自らの本質に帰り、それを肯定することのほうが大事だという、否定の中から強い肯定を生み出そうとするメッセージだったと思う。

 

 

歴史を振り返ると、日本という国はだいぶ無理をしてきたように思うんだよな。

幕末で黒船が来た時、「太平の 眠りをさます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず」なんて狂歌が流行ったそうだけれども、幕末から明治維新、その後の近代化と相次ぐ戦争は、日本人が本当に望んだことだったのだろうか。

それは外部から強いられた状況に適応するためであったが、出来れば日本人はいつまでも太平の眠りをむさぼっていたかったんじゃないかな。

 

 

帝国主義、植民地主義全盛の時代、欧米が支配する暗黒の時代に日本は近代化して乗り出すわけなんだが、生きるか滅びるか、奴隷になるかという時代で、それは仕方がなかったのだろう。

しかし自分たちの本性の中に、なにかそうした、欧米のように他国を支配し植民地化奴隷化するといった本源的な動機というか願望、根拠があったのだろうか。

なにせ欧米人と違って憎悪心が少なく、「せいぜい食いつきそうな目ぐらいが限界」の日本人なのだからね。

 

 

いわば強いられた状況の中で、必要に駆られた結果ではあるが、本性から外れたことをやり続けてきたのが日本なのかもしれないと思ってみる。

自分たちの中になにか根拠があれば、それを手掛かりに自分たちの論理で主体的に物事を進められるはずなんだが、日本人は和を重んじ空気を重視する民族である。

そのような論理がもともとないからどこかから範を求めるしかなかった。

結局それは明治から今に至るまで欧米で、日本は欧米を先生としそれに追随してきたが、それはせいぜい猿真似で、表面的でしかなく、しかし表面的でしかないものを「あるべき姿」や「こうするのが正しい」と思い込んでいるから、自分の本性に気づけない。

 

 

ようは、欧米を規範とする「あるべき姿」を追い求めてきたのが今の日本なんだよね。

ただ、本当に根拠とすべきなのは、自らの中にあるものだ。

 

 

ちょっと、自分の話をしてみようと思うのだけど、僕が世界一周に出たきっかけは、ありていに言えば「自分探し」だったんだな。

「なぜ自分はこういう人間なのだろう」というのが僕の若いころからの関心事で、それゆえに僕は文学に没頭していた時期があったんだが、結局僕は社会がこうあるべきという姿にはまり切れない自分を持て余していたんだな。

そして旅を続けていてもなんだかそんなことをグルグルと考え続けていて、なんか辛い感じだったんだが、ある時「こんな風に自分は生まれついたんだからしょうがないじゃないか」と思ったんだな。

どうしてそんな風に考え方が変わったのか、なにがきっかけだったのか自分でもわからないが、とにかくそのように考えると、ふっと心が軽くなった。

それはけっして高邁な心境でも、悟りを開いたわけでもなく、どうしようもない自分でも生きているんだからしょうがないだろ?と言ったような開き直りだったんだが、心理学的な用語でいえば、それは自己同一性を取り戻した瞬間だったのかもしれない。

 

 

結局は社会がこうあるべきという姿は外部から強いられ押し付けられたもので、それに従っていると自分の本質を見失う。

けれども本当に従うべき論理は自らの中にあるんだということなんだ。

ありていに言えば、他人からどう見られるか、他人が期待することにいかに応えるかを自分の中心に据えるのではなく、自分がのぞむことを行うってことだ。

 

 

これって、僕個人の問題ではなく、同じ図式は今の日本にも当てはまると思うんだよね。

今の日本は外国が望むこと、もっと言えば欧米が望むことをあるべき姿として、自分たちをそれにあてはめようとしているよね。

けれどもそれは自分たちの本性にはないもので、本性にないことをやろうとするからなんだ辛いし、自信が持てない。

言わば「分裂」の状態にあるんだと思う。

 

 

なんだか良く分からない「空気」を重視する民族。

それははっきり言って「愚か」というしかない情けない有様で、現実に起きたことを考えると否定するしかないんだが、それが日本人の本当の姿だというならば、もう仕方がないし、愚かさを愚かさとして肯定することで、僕たちは前に進むことができるのかもしれない。

キリストは「なんじ己を愛する如く汝の隣人を愛せ」と言ったけれども、隣人という他人を愛するというハードルの高さは言うまでもなく、己を愛するというのも実は結構ハードルが高いんだよね。

しかし、「なんじ己の子を愛する如くなんじ自身を愛せ」と言い換えればどうだろう。

どんなに愚かな子供でも親ならば愛するだろうからね。