国民一人一人に真実を伝え正しいことに目覚めれば政治は変わるはずだという信念(左翼に多い気がする)は、理屈の上では正しいが、現実的なのだろうか。

人間はそんなに賢い動物なのかね?

 

「カラマーゾフの兄弟」の大審問官の章で、キリストに対して大審問官はだいたい以下のような批判をする。

お前はいったいいまさら何をしに来たのか。

お前は人間に期待しすぎたんだ。

人間はお前が思うような気高い存在ではなく、むしろ下劣で低俗な動物だ。

ワシははそんな人間どもにふさわしい統治をくれてやっているのだ。

やつらは天国になんて到底行けるわけがないが、ワシの統治によって少なくともこの地上にいる間は奴らに見合った最低限の暮らしはできるだろうよ。

 

民衆を異端審問にかけ迫害しまくっている大審問官がこのように言うわけだが、キリスト=理想主義と大審問官=現実主義の対立の構図である。

人間はより良いものを目指し自らを高めていくものだという理想論と、いや大勢の人間はそんなものに興味はないよ、ただその場その時が良ければそれでいいだけなんだという現実論。

個人的には理想論に期待したいが、現実の人間は社会、政治を見てみると、これはちょっと無理なんじゃないか…と思ってしまうのも事実である。

人間を軽蔑し貶めている統治者が、理想主義者よりもむしろ現実的な統治能力のあるかもしれないという皮肉。

理想主義は確かに良いけれども、人間の一番卑俗な現実を直視しそこから考えるというのは文学の領域で、こういう視点のない理想論は確かに弱弱しいものでしかない気がするんだよな。

 

 

医者は勉強して医者になるわけだけど、それは複雑な人体の仕組みは時間と労力を費やさなければ理解できないからだろう。

万一誤診をしたら治癒どころか悪化することもあり得る。

同じことは政治にも言えるのだが、努力して理解するということは常に少数派のものだった。

しかし民主主義はその判断を多数派にゆだねているのは、民主主義の欠陥かもしれない。

なぜなら国民皆が医者になれるわけがないからだ。

 

 

問題に対しては適切な対応処置をしなければ解決しないし、場合によっては悪化することもありうる。

30年間も経済が悪化し続けているのは処置が適切でなかった可能性が濃厚なのだけど、それをジャッジするのは勉強もせず判断能力もない多数派だという矛盾。

多数派=正しいというのは幻想で、単に群衆としての力があるというだけに過ぎないのだけど、この誤解は日本人において強力で、多数派から外れるという恐怖や不安、多数派の一員であるという群れの中の安心感から、単純な否認を続ける。

 

 

 日本の政治を振り返ると、90年代はまだ日本も日米の貿易交渉とかでアメリカともバチバチやり合うみたいなパワーはまだあったように思う。

それが変わったというか潰されてしまったのは、多分郵政選挙なんだろうなと思う。

あれで自民党もまっさらで平板な更地みたいになった気がする。

まあ「自民党をぶっ壊す!」と言って総理になったのだから、単に公約を果たしたに過ぎないのろう。

しかし壊した後の展望は対してなかったのは問題だった。

それで、それを最終的に決定づけたのは扇動に乗せられた群衆だったのだから救われない。

まあ、あの時の自分がどこに一票投じたのか考えると、人のことは言えないのだ。

ただやっぱり反省して教訓を今や未来に生かすしか方法はないだろうと思う。