政治的な見解や立場を鮮明にすることは、意見の違う人との軋轢や反発を生み対立を作り出しかねないものであるから(それが親兄弟友人であっても)、市井を生きる小市民としてはこれを避け、内心でどう思おうとも表情は何事もないかのように接し過ごすのが賢明だろう。

多数派が暴走し世の中が一方向に流れ(あるいは流され、津波に飲まれるがごとくに)、健全でない状況になっているときに、違う!と叫ぶことはたしかに勇気のいることだ。

 

 

コロナ騒ぎが始まってからもう3年になるけれども、この間世の中がおかしな方向に向かっているなと感じることが多くて、危機感すら感じていた。

社会心理というか集団心理は、恐慌状態になるとこういう形で動くんだなというか、歴史の中で度々見られた事象を現在進行形でながめているような気持ちになったものだ。

正直そんな流れに僕は乗りたくもないし、内心ははっきり「嫌!」なんだが、時には人から何かしらの「圧」を受けることもあって、居心地の悪さというか圧迫感も同時に感じていた。

ただ、僕は小市民すぎる小市民なので、表面上は何事もないかのように過ごし、仕事をしていたわけだ。

 

 

ヴァレリーというフランスの詩人の「テスト氏」という作品の中で、場面はスタジアムの大観衆の歓声の中である。そこでテスト氏が「ほらご覧、皆同じものを目指して考え込んでいるよ。・・・しかし、現実はそんなに単純ではない」とかいうセリフを呟く。

今ふと、このセリフが浮かんだので書いたのだが、皆が盛り上がっている中に水を差すなんて、嫌な野郎だなと思われるかもしれないが、話の重点はそこではない。

大観衆が歓声上げて盛り上がっている時に、その観衆の目には必ずしも現実が見えているわけではないってことだ。現実を見るにはむしろ冷静になる必要がある。というか、自分の今の心理状態を把握する必要があるし、それか大観衆の存在にどれほど影響を受けているのかも正確に知る必要があるだろう。ヴァレリーは批評家的な面の強い詩人だった。大観衆の声というものにいかに人間が流されやすいものであるか、それに棹さすのが批評というものだということが分かっていたのだろうと思う。

 

 

なんだか偉そうなことを書きやがってと思われるのもしゃくなので、自分のことを話そう。

ワクチンについては、そろそろ出来上がるという頃に、安全性に関する報道は結構あった。

僕としては、別に陰謀論に毒された反ワクチンではなかったし、それは今でもそうなのだけど、ただ、打つか打たないかは慎重に判断したほうがいいよなという姿勢だった。

ワクチンが出来るスピードが早すぎた。ちゃんと臨床試験を経ているのかも疑問だった。だから僕は周りの人も同じように安全性に疑問を持ち、慎重に考えるだろうと思っていた。

 

 

そのうち、たしかに2021年の春頃からだと記憶しているが、ワクチン接種が始まるというニュースが出てきた。始めは高齢者から年齢の高い順に接種していき、次第に若い人に、それも基礎疾患のある人を優先にという話だった。

僕の年齢の接種が始まったのはその年の秋頃からで、僕はもちろん様子見姿勢だったが、職場ではワクチンの話で持ちきりだった。

皆ワクチンをいつ受けるかという話をしていた。ネットのワクチン申込みが殺到し予約が取りにくくなっていると聞いた。仕事の空いた時間にスマホ2台持ち込み、やっとの思いで予約を取る人も出てきた。まるでバーゲンセールに殺到しているかのようだった。

 

 

僕はその頃いつ受けるの?と聞かれると、自分は健康だしそのうちに、とはぐらかしていたが、内心ではこのワクチン騒ぎに困惑していた。

その頃にはコロナの年齢別の死亡率は出ていて、40代だと死亡率が1%もないことは分かっていた。全体の死者数を見ても、インフルエンザと同程度かそれ以下で、そこまで騒ぐほどの脅威でないことは、数字を見れば分かった。

そんなに慌てて打たなければならないだろうか?たとえ打ったところで、0.何%かの死亡率がその半分になったところで意味があるだろうか?少なくとも僕の周りではコロナでなくなった人はいなかったし(ごく僅かの不運な人たちを除いては皆そうだろう)、肌感覚でも焦る状況だとも思えなかった。

 

 

そのうち接種が始まった。

接種した人の半分以上は高熱を発し、2.3日は仕事を休む羽目になった。二度打って2回とも副反応が酷くて、3回目は考えるという人もいた。

それまで僕はワクチンについて判断を保留だったけど、これは打たないほうがいいかもなと思うようになった。僕はここ10年くらいは風邪や体調不良で仕事を休んだことがない。健康には自信があった。ただ、ワクチンを接種したら、おそらく2.3日寝込むことになるだろう。ワクチンを接種し自ら体調不良になりに行くとは、どういうことか?

 

 

当時ワクチン接種キャンペーンでは、「自分のためだけではなく、周りの大切な人に移さないために接種を!」も盛んに言われていた。

そのために自分が不健康になったら元も子もないだろうと思っていたが、当初は感染予防のためにワクチン接種が推奨されていた。

周りの人に移さないために、という言い方は、ワクチンをうたない人→周りを感染させても平気な人という誘導になる、自分勝手な奴という烙印。僕も何かしらの圧を周りから感じることもあった。

ワクチンがほぼ全国民に行き渡った段階で、それでも感染者が収まらず、ワクチンの効果を疑問視する声が出てきた。

それに対して有識者だかなんだかは、「ワクチンは重症化を防ぐもので、感染予防にはならない」なんて言い出した。ゴールポストを動かしやがったな!と思った。そのくせテレビでは未だに「周りの大切な人を守るために!」と繰り返していた。矛盾破綻している論理を延々とマスコミが垂れ流し、それに疑問も持たずに受け入れワクチンを何回も打ちまくる人達。

「洗脳」という言葉が浮かんだ。

 

 

職場の人の知り合いで、ワクチンを打って3日後になくなった人がいた。

年齢は40代で基礎疾患もなく健康な人だったという。直接な知り合いではなかったが、身近なところでワクチンの犠牲者が出た。

それを聞いて僕はもうハッキリと、こんなバカなことはほとぼりが冷めるまでやり過ごそうと決めた。

 

 

厚生労働省が把握している、ワクチンとの因果関係が疑われるワクチン関連死の死者数は二千人くらいだったと記憶しているが、実数はもっと多いかもしれない。そして国はワクチンとの因果関係は不明、とおそらく責任は認めようとしないだろう。そもそもワクチン接種は個人の自由であり、日本人の大好きな「自己責任」だからだ。あれだけ社会的に圧をかけておいて、逃げ口上は最初から準備済だったのだから、立派な人の考えることはやはり立派である。

今後ワクチン遺族が団結して国を相手取って集団訴訟とかになるのだろうが、国が過失を認めるのはおそらく30年後くらいになるだろう。そのときにはもう記憶も風化して、忘れっぽい日本人は、ああ、そんなこともあったねと流されて終わりになりそうだ。

 

 

最近ではだいぶワクチン洗脳も解けてきたようで、あまり打っても意味がないという理解はだいぶ進んできたように思う(ワクチンがほぼ全国民に行き渡ったのに、最近の死者数は500人台と最高水準。むしろワクチンによる免疫破壊の影響という噂も)

振り返って思うのは、集団心理とか集団催眠の怖さである。

色々と突っ込みどころ満載のはずだったワクチンが、打つ打たないは自由なのにあれだけのスピードで広がっていったのは、ちょっと異常だった。支配層の人間からしたら、良い社会実験だったのではないかと思うくらいだ。個人的には薄ら寒い気持ちしかない。