坂口安吾に「文学のふるさと」というエッセイがある。
「ふるさと」という単語は、安吾の作品の中で重要なキーワードで、作品の題名としてもたびたび登場しているのだが、ひとつ、安吾のその実際のふるさとを見てみようじゃないか、と思ったのだ。




そして、その「ふるさと」と名の付いた中で一番重要と思われるのが、「文学のふるさと」である。
この中で安吾が引き合いに出しているのが、シャルル・ペローの「赤ずきん」
なのだが、可愛らしい赤ずきんが狼にムシャムシャ食べられて終わるという、童話なのに童話らしいモラルの設定がない話(後で漁師が狼の腹を引き裂いて赤ずきんを助け出すというのは後付の話である)として紹介している。そして、こう書いている。




 愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐
な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。
 私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか。




ここに出てくる「ふるさと」とは、言い換えるならば「不条理」とも言うべきものである。あるいは「死」とも言い換えられるかもしれない。
「ふるさと」という言葉は、一般にもっとポジティブなイメージのある言葉だと思うのだが、安吾にとって「ふるさと」とは、「不条理」であり「死」であったのか。僕は長年このことが引っかかっていた。




「ふるさと」とはいつか帰る場所であるが、安吾の場合はそこに「死」の匂いがつきまとう。
「石の思い」は安吾の幼少期を振り返った小説であるが、その中で近所の白痴の子供が家出して衰弱し病院で息を引き取った瞬間、実家の戸を突風が吹き抜け白痴の部屋まで行って止まった、という話を紹介していて、安吾はこう書いている。




 この事実は私の胸に焼きついた。私が私の母に対する気持も亦そうであった。私は学校を休み松林にねて悲しみに胸がはりさけ死ぬときがあり、私の魂は荒々しく戸を蹴倒して我家へ帰る時があっても、私も亦、母の鼻すら捩じあげはしないであろう。私はいつも空の奥、海のかなたに見えない母をよんでいた。ふるさとの母をよんでいた。
 そして私は今も尚よびつづけている。そして私は今も尚、家を怖れる。いつの日、いずこの戸を蹴倒して私は死なねばならないかと考える。一つの石が考えるのである。





ここでも、安吾が「家」というとき、「死」の匂いが濃密に漂っている。と言うか、そのまま「死」に言葉を置き換えたら分かりやすいのではないだろうか。
もう一つ、似た図式として、「日本文化私観」からの引用であるが、




「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。



ここでも、「帰る」ということが語られている。そしてそれには、不思議な悔いと悲しさがある、と。
人間が最後に帰っていくのは「死」という「ふるさと」「家」であり、そしてそれは赤ずきんの話のように、不条理そのものである。そして「帰る」ということには、不思議な悔いと悲しさがつきまとうものだ。そう言っているのである。



安吾にとって「ふるさと」とは、単に現実に存在する特定の場所を指すのではなく、もっと抽象的な意味を持っていることがわかるだろう。だが、同じような概念をもっと硬質な言葉で言い表した人なら他にもいただろうが、あえて「ふるさと」のような素朴で身近な言葉を使ったのが安吾の面白いところだと思う。
そして、「ふるさと」や「家」という言葉に「死」に近接する意味をもたせたところに、安吾の、死に対する矛盾した断ち難い憧憬と誘惑を感じるのは気のせいだろうか。





「ふるさと」の他に安吾を読み解く上でもう一つ重要なキーワードは、「風」である。
「風」という言葉も、作品のタイトルに頻繁に使われている。
「風博士」は初期の代表作であるが、ラストで風博士は風となって何処へか消え去ってしまう。それは、「石の思い」の、死の寸前に実家の戸を蹴倒す突風となって消えた白痴と同じなのだ。
「風」はビュウと吹き抜けていくだけで、後に何も残さない。吹き抜けていくその瞬間に、単に爽やかさがあるだけである。そして「風」は、「ふるさと」「家」にたどり着いて、消える。安吾はそうした「風」の有り様に憧れ、自分の生き方を重ね合わせていたに違いない。「母の鼻すら捩じ上げない」という。いわば「風」とは、少しも恨みがましくない、爽やかで切ないニヒリズムなのだろう。



解説は以上で終わり。以下は実際に訪れた安吾ゆかりの場所について、引用を交えながら話します。




オレは石のようだな、と、ふと思うことがあるのだ。そして、石が考える。

「石の思い」


安吾年少の頃寝そべって海を見ていたという丘には、その安吾がそのまま石になったかのような巨大な石碑が、変わらず海を眺めていた。
「ふるさとは語ることなし」という言葉が刻まれていた。




尾崎士郎が発起人となってこの石碑を立てたのだそうだ。



 私は今日も尚、何よりも海が好きだ。単調な砂浜が好きだ。海岸にねころんで海と空を見ていると、私は一日ねころんでいても、何か心がみたされている。それは少年の頃否応なく心に植えつけられた私の心であり、ふるさとの情であったから。

「石の思い」




安吾が通っていた旧制新潟中学、現県立新潟高校。
安吾はここで落第し留年したため、東京の私立豊山中(現日大豊山高)に編入する
その時、学校の机に、「余は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろう」と彫ったらしい。今で言うところの厨二病臭いが。



安吾の実家付近にある旧市長公舎が、今は「安吾 風の館」となっている。




この、今は道路となっているあたりが、かつて安吾の生家のあった辺り。



生誕碑は生家近くの新潟大神宮にあった。



生家近くのカトリック教会。
教会が近くにあるとはいかにも港町らしい。




生家付近の、「地獄極楽小路」という気になる名前の小路。
この先は旧刑務所跡になっている。
この辺りは風情ある高級住宅街だったはずで、その近くに刑務所があったことにやや驚いた。