城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-

第6章 立ち上がる市民と城野遺跡①

 “守ることと伝えること”

 

2011年2月も後半になる頃、文化財行政を担う市職員からは、城野遺跡の保存交渉などについての情報が全くないまま時間は過ぎ、発掘終了時期が近づいてきました。

 

このままではせっかく見つかった玉作り工房跡も壊れてしまう……、私の担当調査区でみつかった九州で2例目の貴重な遺構をこのまま埋め戻すわけにはいかない。私は、遺跡を守るということは内部の組織と戦うことだ、とその時思い知らされました。そう思うとなおさら玉作り工房がいとおしくなり、汗水垂らして美しい玉のネックレスを作り続ける弥生人の姿が目に浮かんでくるのです。

 

その間の担当職員との厳しいやり取りは今も忘れませんが、彼の汚い捨てぜりふを浴びせられても、ひるまずに購入した川砂と土嚢袋で工房内を完全に包み込み、その上からブルーシートで覆った上にさらに土嚢を積み上げました。実際作業をしてくれた作業員さんは、真冬の寒い中汗だくになって頑張ってくれ、吐く白い息が青空に浮かぶ雲のようでした。この作業は私の仕事の中で、今も光り輝いて心に残っています【写真1】

 

【写真1】埋め戻し作業風景

中央の四角い土嚢の範囲が玉作り工房跡。土嚢の周囲には詰め込んだ川砂もみられる。この後さらにブルーシートをかぶせて土嚢で抑えている。

 

 

ここでもう一度、城野遺跡の発掘調査経過を以下にまとめておきます。

 

2009年 6月 2日 (財)北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室により、城野医療刑務所跡地に所在する城野遺跡の発掘調査が開始される。

2009年10月30日 巨大な方形周溝墓に2基の箱式石棺が築かれていることが判明【写真2】

 

【写真2】箱式石棺2基の清掃状況

いずれも蓋石が当時のままで見つかっている。手前の南棺にはすでに真っ赤な水銀朱が顔をのぞかせている。

 

 

2009年11月18日 石棺の蓋石をクレーンで吊り上げて開け、内部を発掘する【写真3】

 

【写真3】石棺の蓋石の吊り上げ作業風景

一枚ものの蓋石は長さ2mもあり、吊り上げにはクレーン車を使った。蓋が持ち上がる瞬間は、皆が固唾をのんで見守っていた。

 

2009年11月21日 現地説明会開催。市民600人以上が見学。北橋健治北九州市長(当時)も見学【写真4】

 

【写真4】現地説明会の様子

計600人以上の参加者が見学に訪れた。石棺内部をみようと身を乗り出す人もいた。

 

2010年 1月16日 石棺の木口石に絵画文様が描かれていることが判明【写真5】

 

【写真5】南棺木口石に描かれた絵画文様

専門家の鑑定では、「方相氏(ほうそうし)」という墓を守る役人が盾と戈という武器を持った姿という。目は四つ目で、電球のような頭をしている。また平行な線が何本も見られ、武装しているかのようだ。

2010年 3月 7日 文化庁文化財専門官が視察に訪れ、遺跡の保存措置は北九州市で決めるよう指導を受ける。

2010年11月 1日 玉作り工房跡をはじめて検出する【写真6】

 

【写真6】玉作り工房跡の全景

向こう側の住居が埋まった後に築かれている。床面近くには大量の水晶の破片が散乱しており、ここで玉作りを行っていたことが確認できた。今から1800年前の弥生時代終り頃のことである。

 

2010年11月27日 九州考古学会埋蔵文化財保護対策員会に、城野遺跡の保存に向けた取り組みを要請する。

2010年12月 3日 九州考古学会会長以下、委員による現地視察。

2010年12月17日 九州考古学会が北九州市長、教育長宛に城野遺跡保存要望書を提出する。

2011年 2月15日 日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の2名の委員が現地視察。

2010年 2月25日 日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会が文化庁長官、福岡県知事、北九州市長などへ「北九州市城野遺跡の保存に関する要望書」を提出する。

2010年 2月28日 城野遺跡の発掘調査が終了する。

2011年 9月12日 第1回城野遺跡保存交渉開催(北九州市の国・県との保存交渉。市は当初現地保存の方針)

2013年5月14日 第10回城野遺跡本交渉開催(最終回)

2013年7月16日  開発者である福岡財務支局が城野遺跡のある土地について、公的団体向けの土地取得希望を公共広報にて募る。(回答期限は2013年10月15日)

2013年10月7日 埋蔵文化財担当係長が市長あての「保存計画の変更について(方針伺)」(現地保存断念)を起案し、その後、担当部署が確認し押印。

2013年10月9日 北九州市が福岡財務支局に「公用、公共用地としての取得等要望はありません」の回答書を提出する。

2014年1月7日 「保存計画の変更について(方針伺)」(現地保存断念)に北橋健治市長(当時)が決裁し押印。梅本副市長(当時)も押印。

2014年6月11日 北橋健治市長(当時)が市議会本会議で質問され、城野遺跡の現地保存を断念したことをようやく公表する。

2014年9月ころ 城野地域の住民有志が「城野遺跡の現地保存をすすめる会」を結成し城野遺跡の保存活用を求める署名に取り組む。

2015年10月ころ 市民団体として「城野遺跡の現地保存をすすめる会」の活動を再開し、その後、数々の市民運動を展開する。

2015年11月20日 福岡財務支局が現地を売却するための一般競争入札を公示する。

2015年12月8日 北九州市長が箱式石棺2基を移設し、埋蔵文化財センターに復元展示すると表明。

2016年2月24日 城野遺跡のある土地が大和ハウス工業(株)に売却される。

2016年3月16日 「城野遺跡の現地保存をすすめる会」が大和ハウス工業(株)に懇談を申入れ、その後、懇談や活動報告を繰り返し行う。

 

以上は、城野遺跡の発見から約6年間のあゆみです。これにみるように、北九州市自身が、この遺跡を守って残そうという姿勢、土地所有者である福岡財務支局と協議しようという姿勢がまったく見られません。というより水面下では動いていたのですが、それを公表できなかったのはなぜなのでしょうか。そんなに、遺跡を残す努力をすることが恥ずかしいこと、市民に受け入れがたいことなのでしょうか。

 

ふるさとの太古の歴史が凝縮した城野遺跡は、孤立無援の邪魔者扱いを北九州市から受け続けますが、唯一の光明は、それを大切に守りたい、後世に残したいとの一念で、保存活動を続けている「城野遺跡の現地保存をすすめる会」の存在でした。

 

この会はその後現在に至るまで、城野遺跡の重要性や保存の必要性を広く市民に訴え続けていますが、私は城野遺跡発掘の一担当者として、これほどの情熱をもって遺跡を守ろうとしてくれる人々に対し、大いなる感謝の気持ちが沸き上がりまた。もちろん、この遺跡の保存を断念した北九州市にとっては、目障りな存在でしょうが、私も、その活動を支え続けるのが自分の使命だと感じ始めたのです。次回以降は、その活動の内容とその後の経過についてお話します。(次回に続く)

 

 

【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、北九州市立大学非常勤講師、日本考古学協会会員

 

 

■動画「城野遺跡 朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開 約14分)

城野遺跡の発掘調査を担当した佐藤浩司氏が九州最大級の方形周溝墓で発見された箱式石棺2基の発掘調査にあたり、「世紀の発見かもしれない」と2ヵ月半、約3時間撮り続けた唯一のビデオ記録を城野遺跡の全体像がわかるように約14分に編集したものです。をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/QxvY4FBnXq0

 

 

■動画「城野遺跡 実録80分『弥生墓制の真の姿』」(2022年6月公開 約80分)

上記ビデオ記録を約80分にカットしたものです。撮影当時の佐藤氏のコメントとともに発掘現場の声や音もはいっており、発掘調査の歴史的瞬間の感動がよみがえります。をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10

 

 

■日本考古学協会の要望書

日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。

<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm

 

<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm

 

<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後

 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf

 

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城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次

-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日

 

第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回)

     城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか?

      ☛①2020/8/2 ②2020/8/10 ③2020/8/17

第2章 発掘調査の内容(20回)

     発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか?

      ☛①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8

       ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30

       ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3

       ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6

第3章 注目すべき事実(7回)

     城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか?

      ☛①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8

       ⑥2/7 ⑦6/25

第4章 立ち退かされた弥生人(4回)

     ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?

      ☛①2022/7/31 ②9/6 ③10/28 ④12/13

第5章 遺跡保存への道のり(4回)

     発掘担当者の悩みと苦しみ

      ☛①2023/1/31 ②5/6 (特報1 6/9) ③7/5 (特報2 8/15)

       ④10/19

第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回)

     守ることと伝えること

      ☛①2023/12/30(今回)

第7章 立ちはだかる壁(4回)

最終章 帰ってきた弥生人(3回)

     新たな歴史の誕生

 

※内容や回数は変更することもあります。最近、掲載が遅くなり申し訳ありませんが、まだまだ続きます。ご愛読のほどよろしくお願いします。