城野遺跡/帰ってきた弥生人-城野遺跡発見の一部始終をたどる-

第4章 立ち退かされた弥生人③

“政治的枠組みのなかの城野遺跡”

 

集落を廃絶する理由が必ずしも内部発生的、自発的に起こるとも限りません。たとえば他の集団(外的圧力)に攻められてムラが全滅し、ムラびとのほとんどが虐殺されたり、捕虜としてどこかに連れていかれた場合………。なんだかロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにしているので、古代にもそのようなことが起こったのではないか、と考えるのは行き過ぎでしょうか。「歴史は繰り返す」、そんな言葉が頭をよぎります。

 

よく戦争の始まりが農耕社会の誕生と関連づけられますが、世界の歴史を見ると、氷河期が終わり地球全体の温暖化が始まったおよそ1万年前ごろから、西アジアをはじめ、東南アジア、中部アメリカなどでも農耕が始まりました。ヨーロッパや中国でもおよそ8千年前に農耕社会が形成されたと考えられています。そして、時をほぼ同じくして集落を防御するために環壕(かんごう)が出現します。

 

日本の場合、最古の環壕集落とみられる遺跡が福岡市にあります。博多区板付(いたづけ)遺跡では弥生時代前期はじめ頃(今から約2500年前)、食料貯蔵用に掘られた貯蔵穴を守るため、7000㎡の卵型の環壕が築かれていました【写真1】。遺跡の上面が大きく削られており、本来は竪穴住居もこの環壕内に存在したものと考えられています。

 

■写真1 板付遺跡の遠景

写真中央、発掘調査区域の白線部分が環壕。110m×90mの卵型をしている。その左下の三日月形部分に貯蔵穴が集中していた。現在は国の史跡として保存整備されている。

 

 

そのほかにも福岡市には比恵・那珂遺跡、雀居(ささい)遺跡、弥永原(やながばる)遺跡、井尻B遺跡、野方(のかた)遺跡など多数の環壕集落が発掘されており、まさに邪馬台国時代の「奴国(なこく)」を構成する遺跡群といえるのですが、北九州市の場合はどうでしょうか。

 

私が数年前までに調べたところによると、なんと紫川流域にも6つの環壕集落がありました。響灘に近い側から、備後守屋鋪南側土塁(びんごのかみやしきみなみがわどるい)跡(小倉北区)、重留(しげとめ)遺跡(小倉南区)、寺町遺跡(小倉南区)、上徳力遺跡(小倉南区)、祇園町遺跡(小倉南区)、伊崎遺跡(小倉南区)です。このほかにも板櫃(いたびつ)川流域で屏賀坂(びょうがさか)遺跡(小倉北区)がみつかっています【表1】。地図で示すと図1のように紫川の上流に向かって、点々と環壕集落が営まれていきます。

 

■表1 北九州市東部の主な弥生時代集落

1、3~7までが、紫川流域に存在する環壕集落。10~15は周防灘側にある大集落であるが、環壕は築かれていない。環壕はよくみると、紫川の河口に先に築かれ、時期が下るに従い、内陸部へと広がっていることがわかる。

 

■図1 紫川流域の弥生時代遺跡分布と環壕集落(★)

 

 

ところが、紫川流域に点々と築かれている環壕集落が、竹馬(ちくま)川流域を含む周防灘側では全く見つかっていないのです。もしも、北九州市内に弥生時代のクニが存在したとしたなら、紫川流域、竹馬川流域を含む広範囲のエリアになると思いますが、その中でも地域によって集落の構造というか、防御の在り方が違うということになります。

 

どちらも農耕社会の中に存在した遺跡たちですが、いくさ、戦争という社会状況に対応する施設が異なっているのはなぜでしょうか。まさか、紫川流域のムラムラがいくさ好きで、竹馬川流域のムラムラが仲良し組だったということはないでしょうから、そこにはなんらかの理由があるはずです。

 

さて、では城野遺跡にはなぜ環壕がないのでしょうか。いや環濠はあったんだと考える研究者もいますが、私は城野遺跡が存在する丘陵の地形的特徴に注目しているのです。

 

【図2】にみるように、城野遺跡は東、西、北に谷部を有し、南側の西隅部分だけが唯一、親丘陵とつながっています。つまり集落の守りは環壕がなくても谷部を抱えているので、そこから侵入する敵の動向は小高い集落の上から把握できるのです。

 

■図2 城野遺跡の立地

中央が城野ムラ。周囲はほとんど谷地で囲まれており、わずかに西南隅でブリッジ状に親丘陵とつながっている。また、北側は城野駅に向かって丘陵が伸びており、弥生時代の遺構がみつかっていることから、城野遺跡自体の範囲はもっと広がっていたと考えられる。

 

重留遺跡では環壕の一部が見つかっていますが【写真2】、以前にも述べたように、城野遺跡と重留遺跡、重住遺跡は、互いに共有する低地部に生産の場を設け【図3】、相互依存的に水田経営や祭祀行為などを行っていたものと考えられます。重留遺跡の竪穴住居跡でみつかった広形銅矛による農耕祭祀儀礼は、この3遺跡を含むムラムラが共同で行い、農作物の豊穣を祈り、集落間の結束を高める最高のアイテムだったのです【写真3】

 

■写真2 重留遺跡の環壕

重留遺跡第11地点では、環壕の一部が検出され、写真の上方で左(南)にカーブしている。弥生時代中~後期に機能していたようだ。

 

■図3 三つの集落の位置関係

それぞれの間には紫色で示す谷地が入り込んでおり、農耕などの生産場所として共同で維持、管理していたと思われる。

 

■写真3 重留遺跡の広形銅矛

重留遺跡第2地点では、竪穴住居のなかの土坑に収められた状態で広形銅矛がみつかっている。農耕のお祭りに用いられたと考えられる。広形銅矛は国指定の重要文化財に、この竪穴住居も県指定史跡となって保存されている。

 

 

前回も述べましたが、城野遺跡で戦争が行われた痕跡が見当たらないことから、集落間の良好なネットワークが長期間継続していた弥生時代終末期以降、邪馬台国などが主導する政治的再編成によって、この地域にあっても集落が途絶・解体する事態が起こったのではないか、それがさらに別個の大きな地域的まとまりを生み、階級社会に突入していくことになるのだろうと考えているのです。(次回に続く)

 

 

【寄稿/佐藤浩司氏のプロフィール】 

1955年福岡県生まれ、九州大学文学部史学科卒業。1979年北九州市教育文化事業団(現・市芸術文化振興財団)入所。埋蔵文化財調査室で開発事業に伴う城野遺跡をはじめ市内の数多くの遺跡の発掘調査に携わり、2015年4月室長に就任後、2020年3月退職。2014年から日本考古学協会埋蔵文化財保護対策委員会の幹事として九州各地の文化財保護にも携わる。現在、福岡市埋蔵文化財課勤務、北九州市立大学非常勤講師、日本考古学協会会員

 

 

■動画「城野遺跡実録80分『弥生墓制の真の姿』」(2022年6月公開)

この動画は、佐藤浩司氏が九州最大級の方形周溝墓で発見された幼児の箱式石棺2基の発掘調査を2ヵ月半、約3時間撮り続けたビデオ記録を約80分に編集したものです。佐藤氏のコメントとともに現場の声や音もはいっており、発掘調査の歴史的瞬間の感動がよみがえります。↓をクリックしてご覧ください。

https://youtu.be/qafp00zCTzQ?t=10

 

■動画「城野遺跡 朱塗り石棺の謎」(2017年1月公開)

城野遺跡を多くの方々に知っていただくために、城野遺跡の全体像がわかるように、上記の発掘調査のビデオ記録を約14分に編集したものです。↓をクリックしてご覧ください。

 https://youtu.be/QxvY4FBnXq0

 

 

■日本考古学協会の要望書

日本最大規模の考古学研究者団体である日本考古学協会は国、県、市に対し「現状を保存し、史跡として整備、活用」を求める要望書を3回も提出しました。ぜひお読みください。

<2011.2.25要望書> ※城野遺跡の全貌が判明したころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1012.htm

 

<2016.1.8再要望書> ※北九州市が現地保存断念を知ったころ

 http://archaeology.jp/maibun/yobo1508.htm

 

<2016.7.20再々要望書> ※すぐ近くにある重留遺跡から出土した祭祀用の広形銅矛が国の重要文化財(広形銅矛では全国唯一)に指定後

 http://archaeology.jp/wp-content/uploads/2016/08/160802.pdf

 

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城野遺跡/帰ってきた弥生人 目次

-城野遺跡発見の一部始終をたどる- ※日付は掲載日

 

 

第1章 城野遺跡発見の経緯と経過(3回)

     城野遺跡はどのように発見され、どのように取り扱われてきたのか?

      ☛ ①2020/8/2 ②8/10 ③8/17

第2章 発掘調査の内容(20回)

     発掘調査により、どのようなことが明らかになったのか?

      ☛ ①2020/8/24 ②8/31 ③9/9 ④9/18 ⑤9/27 ⑥10/8

       ⑦11/7 ⑧11/20 ⑨12/5 ⑩12/18 ⑪12/30

       ⑫2021/1/25 ⑬2/15 ⑭3/26 ⑮4/10 ⑯5/1 ⑰6/3

       ⑱6/26 ⑲7/16 ⑳8/6

第3章 注目すべき事実(7回)

     城野遺跡は弥生時代の北九州の歴史にとって、何が重要なのか?

      ☛ ①2021/8/30 ②9/30 ③11/6 ④11/28 ⑤2022/1/8

       ⑥2022/2/7 ⑦2022/6/25

第4章 立ち退かされた弥生人(4回)

     ここで暮らした弥生人たちは、どこへ?

      ☛①2022/7/31 ②2022/9/6 ③2022/10/28(今回)

第5章 遺跡保存への道のり(3回)

     発掘担当者の悩みと苦しみ

第6章 立ち上がる市民と城野遺跡(6回)

     守ることと伝えること…

第7章 立ちはだかる壁(4回)

     行政判断の脆弱さを問う

最終章 帰ってきた弥生人(3回)

     新たな歴史の誕生

 

※20日に1回程度のペースで連載予定です。内容や回数は変更することもあります。最近、掲載が遅くなり申し訳ありませんが、ご愛読のほどよろしくお願いします。