城野遺跡は九州最大規模の方形周溝墓と朱塗りの石棺だけではなく、弥生時代の大規模集落や九州2例目の玉作り工房が発見されていることも学術上重要で大きな魅力です。
3月25日開催した講演会“輝く弥生の玉物語-潤地頭給遺跡VS城野遺跡-”は、九州で2例しかない玉作り工房跡をテーマに、九州1例目の潤地頭給遺跡の玉作り工房を発掘した江﨑靖隆氏を迎え、九州2例目の城野遺跡の玉作り工房を発掘した佐藤浩司氏両名の講演とバトル対談で、弥生時代を飾る2つのハイテク集落、玉作り工房について熱く語られました。
参加者は89名で会場は満席、追加の椅子を出すほどの盛況でよかったです。“玉作り”をめぐり、どんな玉を作っていたのか、碧玉や水晶などの材料はどこからどうやって運んだのか、どんな方法で作っていたのか、どんな地域でつくられていたのか、だれがどのように使っていたのか、など玉作りの高度な技術とともに広範な地域とのつながりや社会構造も見えてきて、みな興味津々でした。
九州には玉作りが行われていたと思われる遺跡は他にもありますが、玉作りの製作工程がわかる遺跡はこの2つの遺跡だけとのことです。
潤地頭給遺跡が南北130m、東西80mの区域内に33軒の玉作り工房が営まれていたのに対し、城野遺跡の玉作り工房2ヶ所は、工房自体が通常の集落の中にあり、生産場所と生活場所が同一空間にあることが最大の特徴とのこと。いち早く玉の魅力に気づき、それを集落の中で製作しようとしていたとの話しを聞きながら、北九州市の“ものづくりの街”の始まりである玉作り工房の現地を保存し、語り継ぐことの重要性を改めて考えさせられました。
九州最大規模の方形周溝墓の中から出土した高価な水銀朱がたっぷり塗られた朱塗りの石棺2基。南石棺に葬られた王子の首にささげげられた最高級の碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)と瑪瑙製棗玉(めのうせいなつめだま)のネックレスは城野遺跡のものではなく、科学的分析から山陰地域や朝鮮半島、中国で製作された可能性も指摘されているそうです。「もしかしたら、突然子ども(王子)を失った親(王、王女)が身に着けていた大切なものをささげたのかもしれない」という話しに今につながるロマンを感じました。
この日は、インターネットでも公開している「日本考古学協会からのビデオメッセージ」と「朱塗り石棺の謎」をスクリーンで上映しました。小さなパソコンの画面とは違い迫力がありました。
ちなみに、1800年前の弥生人がどうやって硬い石に細い孔(あな)をあけたのかは解明されておらず、まだ謎のままだそうです。
市民の宝である城野遺跡を後世に語り継ぐために、九州最大規模の方形周溝墓とともに、九州2例目の玉作り工房跡も現地保存したい。1800年間守られてきた今、消し去るわけにはいきません。
北九州市の文化財保護行政の真価が問われています。
1800年前の国民的文化遺産であり、北九州の歴史が刻まれた貴重な城野遺跡を後世に残すことができるかどうか、今まさに、北橋市長に英断にかかっています。