「言霊」という『思い』 《霊界探訪》 | 神人一致の癒奏術・響庵

神人一致の癒奏術・響庵

ホリスティックセラピスト、ヒーラー、アロマブレンダー、メディカルハーブ、薬膳・漢方等々、様々な「癒し」を奏でる『ヒューマンセラピーメソッド』
それが【癒奏術】です。

ホームページ
https://yhibikian.wixsite.com/akuh

 

 

 

「思い」は言葉ではない。

言葉は「思い」を言語変換したもの。

 

その言語変換を人は「素直」に「真っすぐ」に変換出来ているわけではない。

 

「思い」とは違う言語変換をして、変換された「言葉」に従う。

すると思いと行動はズレる。

 

「身・口・意」の三密の一致とは、言葉で言うほど簡単なことではない。

 

 

人はいとも簡単に自分の「思い」を捻じ曲げて言語変換する。

「思った」ことと違うことを「思った」ことにする。

 

自己正当化やプライドや・・・・

その奥にある恨み、妬み、僻み、嫉み・・・・・

更にその奥にある「恐れ」「怒り」「悲しみ」「喜び」

 

心に湧いた「思い」を「修正」しながら「言葉」へと転化する。

 

 

 

霊界は「言霊」で対話する。

言葉に変換することはない。

 

言葉に変換しているのは常に自分である。

 

 

霊界の出来事を「言葉」にせねば伝わらない。

だが、同時にそれは「言葉」によって「囚われ」を生む「呪い」となる。

 

霊界の出来事を現界に現わす時、いろいろなものが歪む。

その一番が「言葉」

 

言霊の「以心伝心」を言葉にしているのであるが、それは「変換」されたものである。

ただただ「思い」を真っすぐに伝える会話を、ただ「言葉」をもって変換しているのである。

 

 

「現実世界」に於いても「思い」は「以心伝心」している。

「言葉」の前に「言霊」があらわれる。

 

「言霊」と「言葉」が『違う』ことが当たり前となっている現実世界である。

 

当たり前すぎて自分でもわからなくなっている。

だから、人は変換した自分の「言葉」によって「呪い」に懸かる。

 

そうして「思い」として何度も何度も湧き立った「言霊」は、「行動」へと昇華されないまま時を過ぎてゆく。

だから人はいつまでたっても「餓え」や「渇き」に苦しみ続ける。

 

自分の思いを捻じ曲げて、自分の思いを達成させない。

いつも消化不良が続いている。

 

 

 

導きが降ろす言霊は、そうして達成されぬまま放置され続ける。

 

 

導きの言霊、神の言霊を「言葉」にするとき、それを捻じ曲げる「別の思い」がある。

「思い」が混じれば歪むのは当然である。

 

別の思いもたくさんある。

それらの「何が」混じっているのか・・・・

それすらわからないだろう。

 

人はそれほどに「思い」を真っすぐに言語変換出来ていないのである。

 

 

 

言霊を真っすぐに受け取るのが「天照大御神」

言語変換するのが「月読命」

どちらも曇っていれば言霊は真っすぐ言葉に成らない。

 

誠とは言霊が真っすぐ「言葉に成る」こと。

「真言(まこと)」である。

真の言霊を真っすぐ変換した真の言葉

三密せねば成らないものである。

 

 

余計に混じる「思い」「感情」「記憶」などが混じらぬよう、常に心を掃除し言葉を洗濯していなければ、何が「汚れ」なのかもわからない。

 

美味しい料理もワインも、服に、絨毯にこぼせば「汚れ」である。

 

綺麗な言葉も、優しい心も、言霊に必要ない時に混じればそれは「穢れ」である。

「誠」を歪める「シミ」となる。

 

 

「悪」は純粋なれば「善」となる。

「善」は純粋ならざれば「悪」となる。

 

「悪」を「悪」とする「善の混ざり」が「悪」でないものを「悪」とする。

「善」を行う心に別の「思い」が加われば、「善」は歪んで「悪」へと帰着する。

 

 

 

言霊を言葉にするときに「善」にしようなどと「別の思い」を混ぜれば、神の言霊であっても「悪」へと巡る。

 

 

「思った」ことをそのまますぐに実行しようとすればわかること。

いかに「実行」が困難な「思い」がたくさんあることか・・・・

それに気付く。

 

頭の中で「思い」を色付けし、味付けし、カタチを変えてゆく自分がいる。

そうして納得できた姿は、最初の「思い」にあった「意図」が薄れ消えている。

それはもはや「叶っても意味のない思い」となっている。

 

 

導きも守護も神々も、いくら言霊を「思い」として伝心させても、なかなか昇華されない言霊が「流れて消えて」いくのをいつも見ているしかない。

 

 

 

 

最初に戻ろう。

 

「思い」は言葉ではない。

言葉は「思い」を言語変換したもの。

 

「脳」の思考は「言霊」を言語変換する「意思」によって発動される。

「思い」が湧くから「言葉」に変換するのである。

 

ブッダが「受・想・行・識」と言ったそのままである。

 

 

最初の「受」とは何なのか?

 

「思い」の受信である。

「思い」とは「潜像世界」に生まれた『霊の玉』

それを自分である「霊」が感受する。

「以心伝心」である。

 

それを「頭で言葉に変換」するから『言霊』と言う。

 

「想」とは「言霊」である「思い」を言語思考に「相照らす」ことである。

 

そうして「行」という言語化して「言葉」に代わり

その結果を「認識」することで「記憶」される。

 

「受・想・行・識」の「受」から「想」、「想」から「行」、「行」から「識」のそれぞれの合間に「別の思い」や「別の意図」が『混じる』わけである。

そうして最終的に「認識」された言語化は、言霊とは違う姿、違う意図を持ったものに変わっている。

 

 

別の思い、別の意図が「混じる」のを見つけ、それを排除するのは「嗅ぎ分ける鼻」である。

 

「素戔嗚命」の役割である。

 

 

 

伊邪那岐命が「禊ぎ祓い」で「三貴神」を生んだのは、「誠」に「穢れ」が生じて「言霊」が歪んで穢れて「人の行動」へと帰結していくからである。

 

 

天照大御神が岩戸の中にいるということは、言霊という「思い」の感受が「闇」でまともに「見えていない」ということである。

いったい誰の?何の?言霊なのか・・・・

それが見えていない。

 

それが見えていなければ、言語化しても「それが何なのか」もわからぬまま言語化しているということ。

 

太陽が無ければ月は照らない。

天照大御神が岩戸の中なれば、月読命は使命を全うできない。

最初の「受」が間違えば、すべてが間違うわけである。

 

 

 

 

 

再び最初に戻ろう。

 

「思い」は言葉ではない。

言葉は「思い」を言語変換したもの。

 

受信する心は胸にある。

上からの受信と下からの受信の真ん中である。

 

上から来るのは「言霊」

霊からの言霊である。

下から来るのは「身霊」

身体からの言霊である。

 

人はそれすら見分けていない。

上から来ているのか下から来ているのかさえ・・・である。

 

下から来たものを「神の言葉」と言う人も多い。

 

 

ヨガのチャクラの開発は常に「下から」である。

チャクラに附された数字が呪いとなって、「下から」ばかりであるために、ほとんどの人が「第4チャクラ」で詰まる。

そうしていつしか「肉体」が『神』として君臨する。

 

その逆もある。

なんでもかんでも「上から」と思い込む。

下から来ても「上からの言霊」と思い込む。

 

 

そういったものを「穢れ」というのである。

だから禊ぎ祓えと・・・・・・

 

 

 

湧き立つ「思い」が何であるのか?

 

それがわかった時、天照大御神が岩戸の中から出てきた・・・・ということである。

照らす太陽の神が現れれば、言霊を読む(言語化する)月も照り映える。

 

 

「思い」を一切の混じりけなく「言葉」に変換すること・・・

それが「神との対話」「霊との対話」にとって重要なことなのである。

 

 

 

 

霊界では常に「言霊」の「以心伝心」によって対話する。

だから一切嘘がつけない。

 

騙されるのは、つねに自分の「闇」が原因である。

自分で「歪めた」結果なのである。

 

 

ひふみ神示にあっても、霊界物語にあっても、大本神諭にあっても・・・・

混じり気という「ものの化」が入り込む。

その「ものの化」は、文字にあるのか、文章にあるのか、書いた人にあるのか、それとも読んでいる自分にあるのか・・・

 

文字の、文章の奥にある「言霊」を見ることである。

 

 

言霊と言葉の間に「歪み」があればわかるものである。

 

そのために「言霊」というものを良く知る事。

それは「思い」を知る事である。