『救い』 ~虐待されて育った子供は、自らが親になった時、我が子に虐待をしてしまう。 | 神人一致の癒奏術・響庵

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子供のころに『寮生活』と称する「飼育小屋」に隔離され、自分の『夢』を人質にされた子供たちは、傲慢で醜悪な大人たちの「偏執した性癖」から逃れられない状況の中で、「助けてくれない大人」という社会性を学ぶこととなった。

 

労働の場である「仕事場」でも、大人たちは誰一人として子供たちを助けることなく、奴隷のような子供たちの『主(あるじ)』の顔色をうかがい、救いの眼差しは常に「見て見ぬふり」をされる。

 

 

そんな環境の中で育った子供たちが「大人」になり、かつての『主(あるじ)』のように「顔色をうかがわれる」立場になったらどうなるのだろうか?

 

 

 

『虐待されて育った子供は、自らが親になった時、我が子に虐待をしてしまう。』

 

忌み嫌っているはずの行為を、自らも行うようになる。

自らが受けた「傷」の痛みを癒すかのように、マイナス(負)の記憶をプラス(正)の記憶で書き換えようとするかのように、受けた痛みを今度は「与える」ことで「±0(プラマイゼロ)」にしようとして・・・・

 

 

過去に受けた痛みの記憶は、どす黒い「怨念」と化しており、けっして消えることは無い。

その「怨念」が大人になり「立場」が変わることで「解放」される。

 

その「怨念」は罪のないものへと向けられるわけではない。

「罪がある」とカテゴライズし認識したものへと向けられる。

 

 

かつて自分たちの「救いの眼差し」を無視した大人たち・・・・

そのカテゴリーに属するものは全て「罪人」と認識する。

 

 

 

かつてのジャニーズの子供たちは「カウンセリング」が必要な大人たちである。

中居君の問題は、かつての「罪人」たちが未だに「見ざる聞かざる言わざる」を続けているから起こる当然の事件である。

つまりは未だに「罪なこと」を続けているということ。

 

「夢」を人質に「隷属化」され続け、救いのない環境の中で自ら「自衛手段」を構築せざるを得なかった子供たち。

親の「夢」まで背負い、それも「人質」にされている中で、「隷属のしつけ」が行われているわけである。

 

子供たちは「痛み」を感じていては心も身体も蝕まれて壊れてしまうから、「感じないように」しようとつとめるしかなく、「従順」になることで「痛み」が消えることを知り、結果「従順に隷属」することとなってしまう。

 

まさに『飼育』が行われてきた結果である。

 

 

それを見て見ぬふりをしてきた「周りの大人たち」こそが「仕事場」の人間関係であり、それらの大人たちに対しても「自分の在り方」というものを構築する。

隷属した「主(あるじ)」に媚びへつらう彼らは、「主の所有物」として自分を見、自分を扱う。

 

そうして「主の所有物」として扱われてきたものが、ある時から「主」のそれのような扱いへと変わってくることに気付く。

その「環境変化」は「内的変化」を促し、「主の所有物」から「主」へと自分が転化した・・・成長したのだと思ってしまってもやむをえまい。

 

周りの自分に対する態度の変化は、自分の態度の変化をも促す。

環境に「適合」するということである。

 

 

環境に適合した結果、「奴隷」の振る舞いから「主」のそれのような振る舞いへと転化する。

そして、かつて「主」が行っていたように、自分もそのような「振る舞い」へと変わってゆくこととなる。

 

受けた「痛み」を今度は「与える」ことで自らの「欠落」を『補完』するように・・・・・

 

 

 

『親に虐待された子供は、自らが親になった時、我が子を虐待してしまう。』

ということである。

 

自らを「虐待」した相手への「復讐」ではなく、自らを「虐待」した人間に「カテゴライズ」された「別の人間」へと向けられる。

欲望のまま「虐待」されたように、欲望のまま「怨念」が発動する。

「復讐」ではなく「補完」である。

「欠けた」ものを「埋め合わせる」という行為である。

 

 

 

 

親が子供に「夢を託す」のも「欠けた」ものを「埋め合わせる」という「補完」である。

親が子供に「愛情」という名の「執着」を起こすのも「補完」である。

 

SNSで自分を良く見せようとするのも、逆に他者を罵倒し悦楽に酔うのも「補完」である。

 

 

「欠けた」という思いが凝って「念」の塊となり、その「欠け」を埋めようとするのが「欲」というものである。

だがいくら「欲」を埋めようと、けっして埋まることは無い。

 

なぜなら「欠け」てなどいないからだ。

 

 

それは「欠け」ではなく「傷」・・・という認識の「痛みの記憶」である。

 

痛かった。

そして、思い出すたび「痛み」がよみがえる。

ゆえに「傷」であると・・・・

 

その「痛み」とは、悲しみであり恐れであり怒りであり・・・・

「喜び」を『人質』とされた「飼育」である。

 

 

 

「痛み」の記憶を真ん中にして「喜怒哀楽」を巡らせば、それらは「歪み」の「喜怒哀楽」となる。

 

 

 

「喜び」を人質とされれば自分が「欠けて」ゆく。

欠けてはいないが「欠けている」と思ってしまう。

 

それは時に「期待」であったり「希望」であったり「夢」であったり・・・・

 

「やがて訪れる(かもしれない)喜び」という先物をチラつかせ、それを目の前にぶら下げられながらも渡されない状態・・・・

「夢の人質」という悪辣な「飼育」の手法は、世界に蔓延しているのである。

 

だから人は自分が「欠けている」と感じている。

無意識的に「欠けている」と感じさせられている。

 

その「欠けている」という感覚が蓄積して凝り「欲」となる。

「欠け」の感覚は「空腹感」であり「渇き」である「飢餓感」

 

それが凝り、どす黒い念と混じり合えば、自らが『餓鬼』となる。

 

「餓鬼」は自分が「餓鬼」であるという認識はない。

ただ「欠け」を『補完』するため彷徨う。

 

 

そういう世界が「今」である。

 

 

 

埋めても埋めても埋まらない「欠け」を追いかけても意味はない。

なぜならはじめから「欠け」など無いからである。

 

そこにあるのは「記憶の執着」という『凝り』

その『凝った念』に突き動かされているだけである。

 

 

本来、泡のように「思っては消えていく」喜怒哀楽の情という波の産物。

だがその「泡」に固執し、「泡」を塊に変質させたのは自分自身である。

 

「解消(消える)」されることなく残った「泡」の思い・・・・

それは「埋める」のではなく「解消」するものである。

それを『癒し』と言う。

 

 

その痛みが「恐れ」であれば「恐れ」を、「悲しみ」であれば「悲しみ」を、「怒り」であれば「怒り」を『解消(消す)』ことである。

 

情の泡の塊が『灰汁(悪)』である。

そして、その「灰汁(悪)」を救う(掬う)のが「慈しみ」

下心の灰汁(悪)は下心で掬い取る(救う)

 

だがその灰汁(悪)を秘め隠していたなら、だれも気付かない。

だから誰も掬って(救って)はくれない。

 

 

慈悲の「蜘蛛の糸」は、自ら手を伸ばさなければ取れないのである。

 

 

 

 

 

ひふみ神示 上つ巻 第二十五帖

一日に十万、人死にだしたら神の世がいよいよ近づいたのざから、よく世界のことを見て皆に知らして呉れよ。この神は世界中のみか天地のことを委されてゐる神の一柱ざから、小さいこと言ふのではないぞ、小さいことも何でもせなならんが、小さい事と臣民思うてゐると間違ひが起るから、臣民はそれぞれ小さい事もせなならんお役もあるが、よく気をつけて呉れよ。北から来るぞ。

神は気もない時から知らして置くから、よくこの神示、心にしめて居れよ。一日一握りの米に泣く時あるぞ、着る物も泣くことあるぞ、いくら買溜めしても神のゆるさんもの一つも身には附かんぞ、着ても着ても、食うても食うても何もならん餓鬼の世ざ。

早う神心にかへりて呉れよ。この岩戸開くのは難儀の分らん人には越せんぞ、踏みつけられ踏みつけられている臣民のちからはお手柄さして、とことはに名の残る様になるぞ。元の世に一度戻さなならんから、何もかも元の世に一度は戻すのざから、その積りで居れよ。

欲張っていろいろ買溜めしてゐる人、気の毒が出来るぞ、神よく気をつけて置くぞ。この道に縁ある人には、神からそれぞれの神を守りにつけるから、天地の元の・(てん)の大神、くにの大神と共に、よく祀りて呉れよ。