この2年間で嫌と言うほど思い知った。
『人がいかに他人のエネルギーを糧に生きているか』ということ。
奪うものも奪われるものも自覚がない。
善の名のもとにエネルギーを奪うもの・・・
悪を行いエネルギーを補完するもの・・・
エネルギーを奪い与えることに『善悪』は関係ない。
そもそも『善悪』の概念は人が創ったものである。
だから都合よくねじ曲がっている。
神がこの世に奇跡を顕すのは、人の身体を借りてようやく成し遂げられる。
人だけでなく、この世に存在するあらゆるもので『奇跡』を起こす。
『だから祈りだけではダメなんだよ』
祈りだけで『善行』と思い込み、祈りを捧げていれば『善人』であると勘違いし、祈りを捧げているから神に仕えていると大きな間違いを犯す。
その『祈り』を神がこの世に顕す時、誰かの身体を借りているのである。
人の身体であったり、動植物の身体であったり、大地や水の身体であったり・・・・
だが人は神が使ったその『身体』に対しては何も思わない。
木々や岩に宿る神に祈りは捧げても、木々や岩の「持ち主」には一切目もくれない。
神が『祈り』を聞き届けてこの世に奇跡を顕したら、神には感謝するが『この世に奇跡を現わしたものへ』の感謝はない。
だから平気で『ただ祈る』ことだけを繰り返す。
これほどスピリチュアルというものが広まっていながら、未だ『祈り』ばかりを繰り返す。
『神様が癒しをくださいました』
などと御大層なことを宣いながら、一体その『癒し』がどのようにこの世に顕されるのかということに見向きもしない。
それを神の『代理』として現わしている『誰か』や『何ものか』に感謝を捧げることなどありはしない。
そんなスピリチュアルばかりである。
『祈り』を捧げているから『善い事』をしていると?
大きな間違いである。
頭ばかりの『思考の世界の住人』は、現実を見ることがない。
妄想と現実の区別がつかない。
そして、まさか自分が妄想を見ているとなど夢にも思わない。
思考の中の神にばかり祈りを捧げ、思考の中で神を追い求め、思考の中で神を作り出し、思考の中で満足している。
だがそれは、『現実』というものに対してあまりにも無責任極まりない行いである。
『だからそれは悪なんだよ』
人は常に誰かの、何かのエネルギーを頂いて生きている。
だから循環させねばならない。
だから願いが叶ったら、誰かの願いを叶える。
『その循環無きもの【悪】である』
おのれの願いばかりで誰かの願いなど無視する。
水を奪うだけの『枯れ井戸』
餓鬼畜生の亡者である。
祈りを捧げているから神に近いと?
ただの天狗である。
人のために祈っているから善人だと?
ただの狐憑きである。
餓鬼畜生に天狗に狐憑き・・・
未だ世界は【霊懸かり】ばかりである。
未だ【神】が見えぬのは、『現実』に足を降ろしていないからである。
思考の世界で好き勝手に世界を創り、自己満足に落ちている。
『思考の世界に【神】は居らぬ。そこに居るのは霊ばかりなり。』
だから餓鬼畜生に天狗に狐に懸かられても気付かない。
『未だ世界の九割八分は霊懸かりなり』
神が居る場所は『現実世界』である。
だから『現実』を確と見ている者は、そこに『神』が居ることを知る。
『思考の世界』に神が居ないことを知っている。
『思い込み』という思考が作り出した世界ばかり見ている者に、決して【神】は現れない。
そこに居るのは『思考』が生みだした『神の姿かたちをした霊』である。
ただ祈るは『悪』である。
その行いが『善』に見えていようとも『悪』である。
神の意をその身に乗せて行動するが『善』である。
たとえその行いが『悪』に見えようとも『善』である。
それが本当の『祈り(意乗り)』である。
仏陀は『神の居る場所』を教えている。
『現実』の中にこそ『神』が居るとちゃんと教えている。
しかし人は『現実』から遠ざかり、思考の世界に様々な神を作り出して自ら『霊懸かり』となっていった。
そして『神』を見失った。
教えで思考の世界を生み出し、その思考の世界を広げて様々な『神々という名の霊』を作り出し、霊懸かりを『神懸かり』として『真の神』から離れていった。
拝むことで霊懸かりとなり『思考の世界』で奇跡を起こす。
だが『現実』を見ないから『真の神』の息づく姿が見えない。
それは『現実』から離れ逃れていったということである。
『拝みは御神を隠すものなり』
なぜ神を拝むのに「霊懸かり」となるのか?
『それは心に「餓鬼畜生」が住むゆえである。ゆえに【慾】を浄化せよ。心の中の餓鬼畜生を浄化せよ。』
六根清浄は『頭が作り出した穢れ』を祓うものである。
六根(六感)をありのままに受け止めず、思考で捻じ曲げた『穢れ』を祓うものである。
『無眼耳鼻舌身意』
【般若の心】は『現実を生きる』ということ。
思考が生みだした穢れを祓い、ありのままの現実を生きる心。
神が居る場所はただただ【現実】の世界である。
そこにたどり着けたなら、誠の御神の姿を知るであろう。
その姿の『現れ』に感謝するであろう。
その感謝の心が神を現わした「誰かや何か」に対して『手を合わせる』姿となる。
その時はじめて『拝み』と『御神』が一致する。
『今、自分が立っている場所は何処であるか?
まことに現実であるか?』
現実の世界に立った時、真の神が現れる。
真の神が現れた時、ようやく現実に帰り着いたということである。
『思いを知る』 教えの世から道の世へ 【稚櫻】